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イギリスの若者が考えるEUパスポートの価値

2026年2月、ITVとSavantaが発表した世論調査で、16〜24歳のイギリスの若者の83%が「もし国民投票があればEU再加盟に投票する」と答えた。残りの17%が「域外維持」。YouGovの別の調査では、全世代で見ても再加盟支持が63%、18〜25歳に絞ると86%に跳ね上がる。 2016年のEU離脱国民投票のとき、今の16〜24歳は何歳だったか。6歳から14歳だ。投票権は当然なかった。自分たちが選んだわけでもない結果の中で、就職し、留学先を選び、キャリアの最初の一歩を踏み出している。 もちろん、世論調査は世論調査だ。仮想的な「もし投票があれば」という問いへの回答であって、明日にも政策が変わるという話ではない。2016年の国民投票前も、Remainがリードしていた時期があったことは忘れるべきではないし、「再加盟」の選択肢にユーロ導入がセットになると、支持率は大幅に下がるというデータもある。 それでも、83%という数字が映し出しているものは重い。これは「EU好き」という感情の話だけではなく、「自分たちの世代が構造的に機会を制限されている」という認識の話だ。では、この認識は客観的なデータで裏づけられるだろうか。 ただし、「若者にEUパスポートを渡す」はできない では「若者にだけEUパスポートを配れないか?」、気持ちとしてはわかる。だが制度的には不可能だ。なぜか。 EUパスポートとは、実質的にはEU加盟国の国籍に付随するEU市民権の表象にすぎない。EU非加盟国であるイギリス政府が、年齢で区切って自国民に「配る」類の権利ではない。これは法技術上の問題であって、政治的意思の問題ではない。たとえイギリス政府が本気で望んでも、EUの条約構造がそれを許さない。 ではどうするか。「EUパスポートそのもの」は無理でも、「実質的にそれに近い便益」を設計するルートは存在する。そして実際にいま、そのルートで政策交渉が動いている。 Youth Experience Scheme——交渉はどこまで来ているか 2025年5月のUK-EUサミットで、両者は「若者向け相互モビリティ制度(Youth Experience Scheme、通称YES)」の創設に合意した。18歳から30歳の若者が、相手の地域で就労・就学・ボランティア・旅行などを一定期間できるようにす...

生保と国債と円を繋ぐ

2026年2月17日、日本公認会計士協会(JICPA)がひとつの公開草案を出した。生命保険会社が保有する「責任準備金対応債券」について、金利変動による時価下落を減損のトリガーにしない、という内容だ。 見出しだけ読むと、地味な会計テクニックの話に見える。だが、この変更の背景にある数字を並べると、景色が変わる。大手生保4社──日本生命、第一生命、明治安田生命、住友生命──が抱える国内債券の含み損は、2025年12月末時点で約13兆2000億円に達した。日本生命だけで5兆4500億円。わずか1年半前の2024年6月末には4社合計で約5兆7000億円だったから、倍以上に膨らんだ計算になる。2025年度の4〜12月期決算では、主要15社の基礎利益こそ前年同期比15%増の約3兆5000億円と堅調だったが、国内債券の含み損は約26兆6000億円と3月末から58%も増えている。生保業界全体の話に広げると、金額の桁がもう一段上がる。 日本生命の公社債は約30兆円。そのうち約27兆円が責任準備金対応債券に分類されている。保有債券のほぼ9割が今回の会計ルール変更の対象になるわけだ。 13兆円の含み損が、決算書の「痛み」として表面に出にくくなる。これは粉飾なのか、それとも合理的な修正なのか。そして、この地味な会計変更は、なぜ為替市場で「円高」という形で跳ね返ってくるのか。 順を追って解きほぐしてみたい。会計基準と健全性規制と国債市場と為替市場が、思いのほか深くつながっていることが見えてくる。そして、最近の為替市場で生保が「円高の主役」に転じつつある理由も、すっきりと説明がつく。 まず、何が変わるのか──「損を消す」のではなく「損の測り方を変える」 従来のルールでは、責任準備金対応債券の時価が簿価を大きく下回った場合──実務上は50%が目安とされていた──回復の見込みがなければ減損損失を計上する必要があった。金利が上がれば債券価格は下がる。それ自体は債券投資の基本だ。問題は、その値下がりが一定の閾値を超えたとき、決算書に「損失」として載ることにあった。満期まで持ち続けるつもりでも、だ。 今回の改正案は、この「時価トリガー」を外す。ではまったく損失を認識しなくなるのかというと、違う。代わりに「予想信用損失(ECL=Expected Cre...

物価もバブルも制御できない人類が、AIだけは制御できると思っている件

ひとつ、素朴な疑問から始めたい。 中央銀行は「物価の番人」として何十年もインフレと戦ってきたが、その予測はいまだに外れ続ける。 政府が「売るな」と叫んでも、市場は国債や通貨を売る。 金融規制当局はリーマン・ショックの反省から、バブルや連鎖破綻を防ぐために何千ページもの法令を積み上げた。それでもリスクは規制の隙間へ逃げ込み、金融システムの不安定さは形を変えて繰り返される。 物価も、市場も、金融危機も、いまだに御しきれていない。そんな人類が、なぜ「AIだけは完全に制御できる」と自信を持てるのだろうか。 この問いは、一見すると居酒屋の戯言に聞こえるかもしれない。 だが、この違和感は、単なる皮肉や悲観論ではない。 ここには、我々が「制御(コントロール)」という言葉を使うときに陥りがちな、認識のズレが横たわっている。 楽観論者と悲観論者がいつまでも噛み合わない原因はここにある。同じ「制御」という単語を使いながら、まったく違うレベルの話をごちゃ混ぜにしているのだ。「制御できる」と言う人は見通しが甘く、「制御できない」と言う人はすべてを諦めすぎている。どちらも「制御」の定義がぼやけたまま、別のゲームの話をしている。 「制御」にはレベルがある まず整理しておきたいのは、「制御」という単語がカバーする範囲がやたらに広いことだ。 大きく三段階に分けて考えると、だいぶ見通しがよくなる。 第一のレベルは 完全支配 。望む状態を設計し、外乱がきても狙い通りに維持する。失敗確率を限りなくゼロに近づける、という意味での制御だ。工場の温度管理や時計の機構にはこれが成り立つ。しかし、相手が「反応してくる」系──つまり経済、生態系、そして知能──に対しては、ほぼ不可能だと考えていい。 第二のレベルは 統計的な誘導 。結果を一つに決めることはできないが、平均や分布や頻度を動かすことはできる。インフレ率の「平均」をだいたい2%付近に保つとか、銀行の破綻確率を下げるとか。ただし副作用と時間差は残る。現実の政策や規制が狙っているのは、ほぼこのレベルだ。 第三のレベルは 被害限定(レジリエンス) 。暴走は「起こさない」のではなく、「起きても致命傷にしない」という発想。早期検知、隔離、冗長化、復旧の設計。複雑な系に対してもっとも現実...

世界最高水準の基礎能力を持つ労働者に「足りない」と言う心境

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ある政府資料を眺めていて、奇妙な感覚を覚える。内閣府の経済財政白書に収録された「賃金の持続的増加に向けた課題」と題された1ページ。5つの図が並んでいる。一見すると、日本の労働者にもっと頑張れ、もっと学べ、と言っているように読める。しかし、数字を丁寧に追っていくと、なぜその結論になるのかが腑に落ちない。少なくとも表が示す範囲では、日本人の基礎的な能力は決して低いどころか、むしろ世界でも上位に位置しているように見える。 世界トップクラスの基礎能力を持つ国の労働者に、なぜ「まだ足りない」と言い続けるのか。足りないのは、本当に労働者の能力なのか。 経済財政白書(2025)要約PDF まず、数字を見る 2024年12月に公表されたOECDの国際成人力調査(PIAAC 2023)。30以上の国・地域、十万人規模の成人を対象に、読解力・数的思考力・適応的問題解決力を測定した大規模調査だ。 結果はこうなっている。日本の読解力は289点でフィンランドに次ぐ世界2位。数的思考力291点で2位。適応的問題解決力は276点でフィンランドと並び1位タイ。OECD平均(260、263、251)を全分野で大きく上回る。さらに、読解力の低習熟者(レベル1以下)の割合は日本がわずか10%で、OECD平均26%の半分以下。31カ国中、最も低い。高得点層が厚いだけでなく、底が浅い。国全体として基礎能力が均質に高い。 ひとつ印象的なデータを加えておく。PIAACの前回調査(2012-15年)では、米国の高卒者の読解力・数的思考力の平均スコアが、日本の高校未修了者の平均を下回っていた。つまり日本では、学歴が低くても基礎能力が国際的に高い水準にある。「素材」の品質が、社会の隅々まで行き渡っている。 では、この人材を抱える国の賃金水準はどうか。 2023年の日本の平均年間賃金は購買力平価ベースで約4万2,100ドル(OECD定義によるフルタイム換算)。OECD平均の約5万5,400ドルを大きく下回り、G7では最下位だ。米国の約7万7,000ドルとはほぼ倍の差がある。労働生産性も2024年時点でOECD38カ国中28位。近年はG7で最下位が続いている。実質賃金に至っては、2021年以降のインフレ局面で累計約2%低下した(OECD Employment Outlook 202...

二大政党が溶ける英国──16歳選挙権の意味

2024年7月、英国で労働党が地滑り的勝利を収めた。議席411。圧勝だった。あれからまだ2年も経っていない。ところが2026年2月、世論調査を開くと風景がまるで違う。PollCheckの7社移動平均(2026年2月12日更新)で、首位はReform UK──29.7%。労働党は19.3%、保守党は19.1%。ほぼ横並びで2位を争っている。緑の党が14.1%、自由民主党が12.3%。二大政党合わせても4割に届かない。 これはいったい何が起きているのか。 この問いに「ポピュリズムの台頭」と一言で片づけることはできる。しかしそれでは、いま英国で進行していることの構造が見えない。ここで起きているのは、もっと地味で、もっと厄介なことだ。有権者の不満が一方向に流れるのではなく、右にも左にも同時に漏れ出して、選挙制度が想定していなかった四極構造を生みつつある、ということだ。しかも右に漏れた票と左に漏れた票は、年齢層も地理も争点の優先順位もまるで違う。一つの処方箋では対処できない種類の分裂が進んでいる。 しかも、その渦中で「16歳に選挙権を与える法案」が議会に投入された。2026年2月12日のことである。これが通れば約150万人の新しい有権者が生まれる。しかし、その150万人がどちらに傾くかは、多くの人が直感的に思うほど単純ではない。 この文章では、英国の「四分裂」の構図をまず整理し、次に16歳選挙権が持ちうる効果を検討し、最後にそこから見えてくる──英国に限らない──ある問題を考えてみたい。 「もし明日選挙なら」の数字 まず、現状を数字で見ておこう。Electoral Calculusの世論調査平均に基づく議席推計(2026年1月時点)では、Reform UKが319議席。単独過半数の326にわずかに届かないが、最大党になる。保守党83、労働党68、自由民主党64、緑の党46、SNP(スコットランド国民党)44。 もっと大規模なサンプルを使ったMore in Commonの1月MRP(16,000人超を対象にした選挙区別推計)では、さらに劇的だ。Reform UK 381議席──過半数を112上回る。労働党はわずか85議席に沈み、2024年からの落差は326議席。保守党70。近代英国史で、政権与党がこれほど急速に支持を失った例はほとんどない。Brook...

中国を金融システムから追放する法案なのか――PROTECT Taiwan Actを読む

2026年2月9日(米国時間)、米下院がある法案を可決した。名前は「PROTECT Taiwan Act」(H.R. 1531)。賛成395、反対2。ほぼ全会一致と言っていい。 SNS上では「中国を国際金融システムから叩き出す法案が通った」という趣旨の投稿が広がり、その反応も早かった。台湾のメディアが即座に報じ、中国語圏のネット上では驚きと警戒のコメントが並んだ。 しかし、条文を読むと、見える風景はだいぶ違う。 結論を先に言えば、この法案は「中国をSWIFTから排除する」「ドル決済を止める」といった即効性のある制裁とはまったく別のレイヤーにある。効くとすれば「規制・監督の地政学」の領域であり、そのインパクトは長期的かつ間接的だ。しかし、だからといって意味がないわけでもない。むしろ「有事の手前でカードを切れる」という設計にこそ、この法案のしたたかさがある。 以下、条文の中身、よくある誤読、中国側の備え、そしてこの法案が本当に意味するところを、順を追って整理してみたい。 法案は何を言っているのか まず条文に立ち返る。 PROTECT Taiwan Actの正式名称は「Pressure Regulatory Organizations To End Chinese Threats to Taiwan Act」。頭文字を並べてPROTECTとなる。米議会ではこの種のバクロニム(意味のある単語になるよう逆算して名前をつけること)がよく使われるが、今回もその例に漏れない。 条文の骨格はシンプルだ。大統領が議会に対し、「中国の行動が台湾の安全・経済体制・社会体制を脅かし、かつ米国の利益に危険を及ぼしている」と通知した場合、米国の方針として、以下の6つの国際機関から中国の代表者を排除するよう働きかけることを定めている。 G20、BIS(国際決済銀行)、FSB(金融安定理事会)、BCBS(バーゼル銀行監督委員会)、IAIS(保険監督者国際機構)、IOSCO(証券監督者国際機構)。 そして、財務省、FRB(連邦準備制度理事会)、SEC(証券取引委員会)に対し、この排除方針を推進するために「あらゆる必要な措置を講じる」ことを義務づける。大統領が国益上の理由で適用を免除できるウェイバー条項と、期限を定めるサンセット条項も含まれている。 議...

外為特会は財源の打ち出の小槌なのか

2026年2月8日の衆院選で自民党が316議席という戦後最多を獲得し、高市早苗首相の政策推進力は劇的に増した。選挙戦の目玉だった「食料品の消費税を2年間ゼロにする」という公約は、いよいよ実行段階に入る。だが、ここで疑問がある。年間5兆円とされる税収の穴を、いったい何で埋めるのか。 その候補として浮上しているのが、外国為替資金特別会計――通称「外為特会」の剰余金だ。片山さつき財務大臣はテレビ番組で、外為特会の剰余金を財源として「検討の俎上に載せうる」と述べた。高市首相自身も選挙応援で「外為特会の運用、いまホクホク状態」と発言している。では、この「ホクホク」は本当に減税の財源になるのだろうか。 そもそも外為特会とは何か まず基本を押さえておきたい。外為特会は、政府が為替介入に備えて保有する外貨資産を管理するための「専用の財布」である。2025年末時点の外貨準備高は約1兆3,697億ドル。円換算すれば約200兆円規模にのぼり、年間の国家予算(一般会計約122兆円)をはるかに上回る巨大な資産プールだ。 この外貨資産の大半は米国債などの外貨建て債券で運用されている。一方、ドルを買うための円資金は、政府短期証券(いわゆる為券)を発行して市場から調達している。つまり外為特会は、円で借りてドルで運用する構造――いわば国家規模の「円キャリートレード」を行っている。 ここから毎年生まれるのが「剰余金」だ。外貨資産の受取利息(歳入)から、為券の支払利息(歳出)を差し引いた残りがそれにあたる。日米金利差が大きく円安が進むほど、この剰余金は膨らむ。 過去最大の5.4兆円――だが、すでに使い道がある 2024年度(2025年3月期)の外為特会の剰余金は5兆3,603億円。財務省が決算概要の公表を始めた2008年度以降で過去最大を記録した。内外金利差の拡大と円安が、運用収益を押し上げた結果だ。 ところが、この5.4兆円がまるごと「余っている」わけではない。そのうち3兆2,007億円は2025年度当初予算の一般会計にすでに繰り入れられ、約1兆円は防衛力強化の財源に充てられることが決まっている。さらに約1.4兆円が外国為替資金への組入れ(いわゆる「3割規定」に基づく留保分)として特会内に残された。残りの約7,878億円が当初見込みからの上振れ分で、これが「今後使途を検...

同じ国なのに「別の国」、イギリス編

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以下は、2026年1月に総選挙があったとしたら、という前提でイギリスの議席地図を2枚並べたもので、一方は「65歳以上の男性だけが投票した場合」、もう一方は「若年女性だけが投票した場合」の推計結果である。前者はReform UK(右派ポピュリスト)の濃い青がほぼ全土を覆い尽くし、後者は緑の党(Green Party)がイングランドの大半を制圧する。同じ国の地図のはずなのに、まるで別の惑星である。 図1:65歳以上の男性のみが投票した場合の推計議席地図(仮想総選挙) 図2:若年女性のみが投票した場合の推計議席地図(仮想総選挙) 定義 若年女性=18〜24歳の女性。 出所:YouGov “Voting Intention (MRP/megapoll)” 調査(GB成人、サンプル数 17,230、フィールドワーク 2026年1月9〜14日)。 参照資料(YouGov Survey Results PDF): VotingIntention_Merge_MRP_Jan26_w.pdf この議席図は何をシミュレーションしていたのか まず前提を整理する。この種の地図は、MRP(multilevel regression and post-stratification)という統計手法を使って作られることが多い。大規模な世論調査データから年齢・性別・学歴・居住地域などの属性別に投票先を推計し、各選挙区の人口構成に当てはめて議席を弾き出す手法だ。YouGovが17,000人超のサンプルで2026年初頭の属性別投票意向を詳細に分析しているし、Electoral CalculusのMRP調査(2025年12月実施、サンプル5,500人超)は選挙区ごとの議席予測まで公開している。MRPは過去3回の総選挙で結果を的中させた実績がある手法で、データとしての信頼性は高い。 ただし、ポイントは、あの画像が「次の選挙の予測」ではないことだ。有権者を特定の属性に限定した反実仮想(counterfactual)――つまり「もしこの集団だけが投票したら」という思考実験である。現実には全年齢・全性別の有権者が一緒に投票するから、あの単色の地図がそのまま現れることはない。 だが、思...

くじ引きで決める、を真面目に考える

選挙の翌朝、SNSを開くと決まって同じ光景が広がっている。「なぜこの結果になるのか」「国民は何も考えていないのか」という嘆き。その嘆きは、与党の圧勝でも野党の躍進でも、立場を入れ替えて繰り返される。勝った側は「民意が示された」と胸を張り、負けた側は「有権者は騙された」と歯噛みする。だが、どちらの反応も、ある前提を共有している——選挙の結果は国民の意思を正確に反映しているはずだ、という前提だ。 本当にそうだろうか。少し立ち止まって考えてみたい。問題は「誰が勝ったか」なのか。それとも、「選挙」という仕組みそのものに構造的な歪みがあるのか。 この問いに対して、いま世界中の政治学者や実務家が真剣に取り組んでいる代替案がある。「くじ引き民主主義」——正式にはソティション(sortition)、あるいは熟議型市民会議と呼ばれる制度だ。OECDのデータベースには、1979年から2023年までに世界で実施された733件の抽選型熟議プロセスが記録されており、少なくとも8万人以上の市民がくじ引きで選ばれて政策議論に参加した。制度化された常設型の事例も、2020年の22件から2023年には41件に倍増している。 「くじ引きで政治を決める」と聞くと、冗談か、あるいは古代の遺物のように聞こえるかもしれない。だが、これは理念だけの話ではなく、すでに現実に動いている制度であり、しかも目覚ましい成果を出している。本稿では、選挙が抱える構造問題を整理したうえで、くじ引き民主主義が実際にどう機能しているかを検証し、そのリスクと限界も含めて考えてみたい。 小選挙区制が生む「歪み」の正体 小選挙区制は、得票率と議席率の乖離を構造的に生む。たとえば得票率50%の政党が議席の70%を獲得し、得票率30%の政党が議席の15%にとどまる、ということが普通に起こる。一位の候補だけが当選するので、二位以下に入れた票はすべて「死に票」になる。 この制度には「強い政権を作りやすい」というメリットがある。だが同時に、有権者の意思が正確に議席に反映されないという代償を払っている。比例代表制なら得票率と議席率はほぼ一致するが、今度は小政党が乱立して連立交渉が長引くリスクがある。優先順位投票(有権者が候補者を順位づけする方式)や二回投票制(一位が過半数に達しなければ上位2名で決選投票)など、さまざまな改良...

引力には逆らえない――英国が「近所づきあい」を再開するまでの話

2026年2月、英国のレイチェル・リーブス財務相がロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの壇上で、こう言い切った。「最も価値あるもの(biggest prize)は、明らかにEUとの関係だ」。英国の貿易の約半分がEU相手であり、それは「残りの世界全体とほぼ同じ規模だ」と。 この発言に、右派は「Brexitの裏切りだ」と反発した。中道の自由民主党は「まだ足りない、関税同盟に戻れ」と詰め寄った。労働党政権は板挟みになっている――ように見える。 だが、この話の核心は政治ドラマではない。リーブスが持ち出したのは「経済の引力(economic gravity)」という、国際経済学では退屈なほど基本的な概念だった。つまり、貿易量は相手国の経済規模に比例し、距離に反比例する。大きくて近い相手とたくさん取引する。それだけの話だ。では、なぜこの「当たり前のこと」を、財務相がわざわざ公の場で宣言しなければならなかったのか。そこに、この6年間の英国が歩いてきた道の屈折がある。 「世界に打って出る」はどこへ行ったか 英国がEUを離脱したのは2020年1月。その後、保守党政権は「グローバル・ブリテン(Global Britain)」を掲げた。EUという足かせが外れた英国は、世界中と自由に貿易し、繁栄する――そういう物語だった。 日本でいえば、どんな響きだろうか。「美しい国」や「日本列島改造論」に近いかもしれない。どちらも、現実の制約条件を精神論や壮大なビジョンで飛び越えようとするスローガンだった。グローバル・ブリテンにも、大英帝国時代の「七つの海をまたにかける海洋国家」という記憶がどこかで重なっている。我々は欧州の一国に埋没するような存在ではない、という例外主義。それ自体は、国民感情として不自然でも不健全でもない。 問題は、地図が思い通りに動かないことだった。 確かに英国は離脱後、いくつかのFTA(自由貿易協定)を結んだ。オーストラリア、ニュージーランド。しかし英国政府自身の試算で、オーストラリアとのFTAのGDP押し上げ効果は15年かけて0.1%。誤差のような数字だ。2024年に政権を取った労働党は、その後インド、米国、韓国とも貿易協定を結んでいる。しかし、これらすべてを足しても、EUとの摩擦コストを埋めるには到底足りない、というのが繰り返し指摘されてきた現実だ...

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