仏国債格下げで目が覚めたブレグジット島~こんにちは現実、格下げされたのはロンドナーのボーナスでした~
第1章 序論
本稿は、@ActiveIndexさん企画の「金融系 Advent Calendar 2025 - Adventar」への投稿である。年末企画として、欧州、特にロンドン金融界の視点から、2025年時点でのブレグジットの立ち位置を改めて振り返りたい。
「今さらブレグジット?」と思う方もいるかもしれない。しかしご存じの通り、ブレグジットは交渉過程そのものが長期にわたったように、金融環境への影響も時間差を伴って現れる。確かにブレグジット後もロンドンの金融街は健在であり、活動規模こそやや縮小したものの、依然として各国銀行の現地法人が集積している。そのため「結局、たいした影響はなかったのでは」と感じている人も少なくないだろう。
だが、フランス国債の格下げを契機に、実はこれまで見過ごされてきた構造的な歪みが表面化し始めている。いまになって、「こんなはずではなかった」という現実が、露わになりつつある。
2025年10月、主要格付機関によるフランス国債の格下げは、流動性規制における高品質流動資産(HQLA)の扱いを再び焦点化させた。この問題は、ブレグジット後の英銀にとって特に重要である。なぜなら、EU離脱によって英国は独自の流動性規制体制へ移行し、EU加盟国国債の取り扱いが大きく変化したためである。
本稿では、ブレグジット後の英流動性環境の進化を概観し、CRD VIの第21c条による越境業務規制の導入と合わせて、英銀
のバランスシート、流動性管理、EUアクセスに及ぼす影響を考える。
第2章 規制の転換:HQLA認定の分断化
ブレグジット以前、英国はEU資本要件規則(CRR:Regulation (EU) No 575/2013)の適用下にあり、EU加盟国の発行する全ての国債は信用格付にかかわらず自動的にレベル1HQLAとして認定されていた。
離脱後、英国はCRRを国内法に移管(UK CRR)したものの、適格性基準を修正した。
参照:http://www.legislation.gov.uk/id/eur/2013/575
※ LCR規則でLevel 1 HQLAと認められる条件の一つは、「リスクウェイト0%の中央政府または同等先へのエクスポージャ」である。この区分を定めているのがCRRのArticle 115であり、同条により0%を付与される場合、それ自体がLCR上のHQLA要件を満たす根拠となる。 同条文でEU加盟国の記載が削除され、英国限定の表現に差し替えられている。
UK CRRの下では、レベル1HQLA国債の自動認定は原則として英国債に限定される。EU加盟国の国債は、信用力や市場流動性など特定条件を満たす場合に限りレベル1として認められ、それ以外はレベル2A以下に分類され15%以上のヘアカットが課される。
フランス国債は格下げ前までレベル1相当の信用を保持していたが、2025年10月の格下げによりその要件を満たさなくなった。EU加盟国の銀行であれば、EU規制上、同条文の適用により引き続きレベル1資産として扱われるが、非加盟国では信用力の原則に基づく評価が厳格に適用されるため、同資産はレベル1資格を喪失することとなった。(※格下げされた当のフランスに所在する仏銀は、仏国債を引き続きレベル1HQLAとして保有でき、ヘアカットも適用されない。影響を受けたのはロンドン。)
この変更により、英国とEUの流動性制度は構造的に分断され、EU加盟国の国債を保有する英銀は流動性バッファの効率性を損なうこととなった。EU離脱に伴う規制修正の影響が、潜伏期間を経たいま、具体的なコストとして表面化した。
| 区分 | 内容 | 根拠・参照 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 日付 | 2025年10月17日 | S&P発表 | フランス格付け AA− → A+ |
| 他社格付け | Moody’s: Aa3(ネガティブ) / Fitch: A+(安定) / Scope: AA−(ネガティブ) | 各社発表 | 主要2社がA+水準=「ダブルA」喪失 |
| リスクウェイト (RW) | Non-0%RWへ | CRR付属表 | A+はCQS2に該当 |
| LCR分類 | レベル1 → レベル2Aへ | UK版LCR規則(Commission Delegated Regulation (EU) 2015/61 as onshored)第10条、第11条 | 15%ヘアカット、レベル2A上限の制約対象 |
| 影響 | 英銀はフランス国債をレベル1として計上不可 | PRA Rulebook / UK CRR | 自国例外はユーロ建債には適用されず |
| 結果 | UK銀行のユーロHQLA確保コスト上昇 | 市場実務 | レベル1プール縮小、レポ依存度上昇 |
要点: S&P格下げでAA−を失い、CQS2に落ちた時点でフランス国債はUK CRR上0%RWではなくなる。結果的にレベル1資格喪失、レベル2A(15%ヘアカット)扱い。
第3章 越境業務規制の新展開:Article 21c
こうしたHQLA認定上の分断に加え、EUは制度面でも第三国金融機関の市場アクセスを制限する方向へ動いた。
EU資本要件指令VI(CRD VI)で新設された第21c条は、第三国(非EU)の金融機関がEU加盟国に物理的拠点(支店)を設けずに、貸出、預金、保証、コミットメントといった「コア銀行業務」を越境で提供することを禁止するものである。
ブレグジット以前、英銀は「パスポート制度」により単一ライセンスでEU全域に営業可能であった。しかしブレグジット後、英国は「第三国」とみなされ、2027年1月11日以降、EU加盟国ごとに支店または子会社の設立および認可取得が義務化される。
この制度は、パスポート権喪失を制度的に固定化するだけでなく、資本・流動性要件の重複、コンプライアンス、監査、報告負担、さらに複数法域における支店設立に伴う組織再編コストをもたらしている。
結果として、英国銀行はEU域内の営業効率を喪失し、業務の再構築を迫られている。
第4章 流動性運営への影響:ユーロ建HQLA確保の制約
ブレグジットにより、英銀はEU域内の中央銀行口座を通じたHQLA保有が不可能となり、ユーロ建流動性の確保手段が制限された。これにより、流動性管理上の以下のような実務的影響が発生している。
-
リバースレポ取引コストの上昇
英銀はユーロHQLA確保のため、現物購入やリバースレポを活用している。ブレグジット以降、適格担保調達の競合や清算分断に伴うIM・担保需要の増加、レポーティング・運用負担の増大は構造的なコスト押し上げ要因である(QE縮小と国債増発で担保不足が緩和し、レポ市場は概ね正規化方向にあるため、恒常的に高止まりと断定はできないが)。実務的には、四半期末・年末など特定局面でターン越えやターム物が跳ねやすく、イベントドリブンなコスト上振れが生じやすい。 -
担保資産の制約と格下げリスク
フランス国債は2025年10月の格下げにより、担保枠上の取扱いで一部区分が不利化し得る。一般論としてはヘアカットが幾分厚くなりやすく、英拠点行にとっては仏債の相対効率が低下し、英債・独債や一部北欧国債への配分が相対的に増えやすい。 -
ECBオペレーションへのアクセスと流動性確保の制約
EU域内に所在する第三国行の支店は、要件を満たす限りユーロシステムのカウンターパーティ資格を得られ得るが、自動継続ではなく要件充足が前提となる。より構造的な影響はCRD VIのArticle 21cで、2027年1月11日適用開始以降、第三国機関は各加盟国でTCBを個別に設立する必要があり、EUパスポートは使えない。結果として事業は加盟国単位で分断され、支店ごとの資本・流動性・ガバナンス等への対応が増え、グループ内の資金移転や担保配賦の柔軟性が低下しやすい。さらにTLTRO終了後の余剰流動性縮小で、ユーロ調達は市場取引への依存度が高まり、環境次第で調達コストが上振れやすい。総じて、形式的なECBオペアクセスの維持余地はある一方、実務面の流動性運営効率は低下する二重の制約に直面している。 -
決済・清算インフラの断絶
LCHのEU同等性は2028年6月30日まで延長され、EU機関によるロンドン利用は継続可能となった。ただしEMIR 3のAARにより、一定規模以上のEU金融機関は2025年6月25日までにEU域内CCPにアクティブアカウントを開設し、EUR建金利デリバティブ等を域内で一定割合清算することが求められる。結果として、ユーロ建デリバティブの清算はロンドンと大陸欧州の“並走”体制となり、(1) CCP間でのポジション非ネット化によるIM・担保需要の重複、(2) 複数通貨・複数CCPに跨る担保管理とストレステストの複雑化、(3) 複数清算・報告体制を前提とする恒常的なシステム・事務コスト増が生じやすい。
総じて、ブレグジット後のユーロ流動性運用は、単なるコスト上昇ではなく、「市場アクセス・通貨流動性・担保適格性」の三重の制約構造に変化している。
第5章 経済的影響と政策的含意
在英銀行にとって、EUと切り離されたHQLA運用・報告枠組みと、CRD VI Article 21cの適用は構造的なコスト圧力である。加盟国ごとのTCB/支店対応に伴う監督・報告の重複や、EU内CCPでの最低清算活動(AAR)に起因するCCP跨ぎのIM・担保需要の重複、担保管理・ストレステストの複雑化は、集中ALMの機動性を低下させやすい。ユーロHQLAの調達は引き続き市場ベースが中心で、イベント時のマージン需要が資金繰りに与える影響は相対的に大きくなり得る。Article 21cは中小国での物理拠点要件を通じて参入固定費を引き上げ、ビジネスの経済性を損なう局面では競争縮小のリスクもある。英国金融当局(PRA・BoE)は、国際基準であるBasel 3.1の実施において競争力を考慮した調整を行い、また独自のStrong and Simple制度を通じて制度的差別化を図ろうとしているが、ロンドンのホールセール・ハブ機能は確実にパリ、フランクフルト、ダブリンに分散しつつある。ユーロIRS清算ではロンドン優位がなお残るものの、EU側はAAR等で域内清算の底上げを継続している。
第6章 結論
ブレグジットは単なる市場アクセスの喪失ではなく、英銀の流動性、資本効率、運営構造に深刻で持続的な影響を与えている。
EU加盟国国債の自動認定が廃止されたことで、英国銀行はヘアカット負担とユーロ流動性確保コストを抱え、さらにArticle 21cによって業務上の越境障壁が制度的に固定化された。
フランス国債格下げ影響は、この分断構造の実質的影響を象徴している。
金融システム上の環境を見ると、いまのロンドン金融街には「なんでこうなった」といった嘆きが一段と広がっている。欧州金融インフラの中核を担う金融環境とは言い難い。ブレグジットの真のコストはアクセス喪失そのものではなく、分断された欧州金融環境の中で銀行経営を維持するために生じる、不可逆的な財務・運営負担にある。
付録
2025年時点までの定量的な影響
- ブレグジット以降、英国の銀行・金融サービス業に生じた実務的な変化を、定量的なデータを用いて概観すると以下のとおり。これらの数値は、主として各種調査機関・報道・金融業界団体が公表した2025年時点までの集計結果に基づくもので、今後の政策変更や市場動向による将来的な影響を示すものではない。
| テーマ(指標) | 具体論点(推計値) | 実務インパクト | 根拠 |
|---|---|---|---|
| 資産移転規模 | 英国の銀行・保険からEUへの資産移転額:1.0兆ポンド超 | EU現法側BS拡大・ロンドン側縮小、清算・決済口座の再配置と運営コスト増 | Euractiv(2025/4) |
| 法人の移転件数 | 事業・人員・法人の一部移転:440社以上 | ライセンス・報告・監督対応の重複、IT/データ境界の維持コスト増 | New Financial |
| EU拠点の人員増 | 米大手IB 5社のEU拠点で約11,000人増 | フロント・ミドルの機能分散に伴う拠点間の調整コスト・管理負担の上昇 | Financial News London(2025/6) |
| ロンドンの雇用減 | ロンドン金融街で喪失・移転した雇用:約40,000人 | 税収・消費の下押し、特定プロダクトのロンドン市場シェア低下リスク | Reuters(2024/10) |
| 英国銀行業の総雇用 | 約220万人(うち約3分の2はロンドン以外、法律、会計、経営コンサルティングも含む) | 産業規模は維持も、機能の地理的再配置で地域間バランスが変化 | Savills(2025) |
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