サナエレジーム~円安構造とその脆弱性~

高市政権下の複合的リスクと市場の反応

2025年10月に発足した高市政権は、政策運営の方向性と地政学リスクが同時に焦点となる特異な局面を迎えている。リフレ政策への強い志向性と台湾有事を巡る一連の発言が続く中、金融市場は政権中枢の政治力学にも敏感に反応している。自民党副総裁に麻生太郎氏が就任し、鈴木前財務大臣が幹事長に入るという人事配置により、市場の一部では、麻生派による「良識的なブレーキ」が過度な円安や財政運営の逸脱を抑制するとの期待が存在した。しかし実際には、政権発足後も円金利上昇と円安が同時進行するパターンが継続している。表向きには麻生派が節度を保つ構図が整ったにもかかわらず、政策のメインストリームはリフレ継続と解釈されている。 加え、高市首相は、台湾有事の可能性について、「日本の存立危機事態になり得る」などと答弁し、地政学的懸念が浮上している。 本稿では、過去の日中摩擦事例——2010年の尖閣衝突、2012年の国有化——における市場挙動と比較しながら、「存立危機事態」発言がもつ経済・金融市場への示唆、現在の構造的脆弱性を分析する。当時、円は典型的な安全資産として地政学リスク時に買われる傾向があったが、現在では逆に円売りが優勢となる場面が増えている。この通貨としての性質変化は、日本経済の構造転換を反映するものであり、政策対応の選択肢にも影響を及ぼす。 さらに重要なのは、日中摩擦に伴う貿易量の減少(数量ショック)と、円安が輸入物価を押し上げるコストショックが同時に発生し得るという点である。この複合的なショックは歴史的にも前例が乏しく、今回の状況を特徴づける重要なリスク要因となっている。こうした環境下では、政策判断の先行指標として円建て輸入物価指数の重要性が高まり、金融政策と通貨動向の連動性をより強く意識する必要が生じている。 このように、過去の経験則では十分に説明できない市場反応が顕著となる中、本稿は政治力学・地政学リスク・構造的問題という三つの要素が、どのように現在の日本経済に複合的に作用しているかを体系的に整理することを目的とする。

主要な事項:

  • 円の性質が「安全資産」から「リスク時に売られる通貨」へと変化した
  • 「数量ショック×円安」という歴史的に前例のない組み合わせのリスク
  • 金融政策のみでは対応困難な構造的円安要因の存在
  • 政治的制約と政策志向が生み出す「粘着的なリフレ期待」

1. 分析の背景と目的

1.1 問題意識

高市政権発足後、金融市場では特異な現象が観察されている。副総裁に麻生太郎氏、幹事長に鈴木俊一前財務大臣という人事配置により、市場の一部では「良識的なブレーキ」への期待が存在した。しかし実際には、政権発足後も円金利上昇と円安が同時進行するパターンが継続している。

この市場反応の背景には、政策のメインストリームがリフレ継続と解釈されていることがある。表向きの人事配置と市場が織り込む「本音」との間に乖離が生じており、この認識ギャップが為替市場の動向に影響を与えている。

本分析では、以下の視点から高市政権下の経済リスクを定性的に整理する:

  1. 歴史的比較:2010年尖閣衝突、2012年尖閣国有化時の市場反応との比較
  2. 構造分析:国際収支構造の変容と円の性質変化の検証
  3. 政策評価:金融・財政政策の効果と限界の考察
  4. シナリオ分析:今後6か月の展開可能性の検討

2. 高市政権の経済政策姿勢:市場の解釈

2.1 「粘着的なリフレ期待」の形成

金融市場では、高市政権に対して「粘着的なリフレ期待」が形成されていると観察される。この期待は、以下の要因に基づいていると考えられる:

  • 総裁選挙戦での「アベノミクス継承」の明示的表明
  • 「高圧経済」「責任ある積極財政」といったキーワードの使用
  • 日銀の連続利上げに対する慎重姿勢の示唆
  • 経済政策ブレーンの人選における思想的傾向

2.2 人事配置の市場解釈

麻生太郎副総裁、鈴木俊一幹事長という人事は、表面的には財政規律や金融政策正常化への配慮と解釈できる。しかし、市場では以下のような見方も存在する:

要素 楽観的解釈 懐疑的解釈
麻生副総裁 財務大臣9年の経験を持つ財政規律派として過度な財政拡張への歯止め役を期待
「規制改革など金を使わずに大きな効果を生む政策」を主張(2025年11月)
高市総裁との接触は限定的で実質的影響力は不透明(首相動静で接触ほぼなし)
「積極財政派」の高市首相と「財政規律派」の麻生氏は水と油の関係
支持率低下時に対立が表面化するリスクあり
鈴木幹事長 元財務大臣(2021-2024)として財政規律への深い理解を保持
「積極財政と健全財政は対立するものではない」として調整可能性を示唆
「メリハリのある予算編成」で成長投資と財政規律の両立を主張(2025年11月)
麻生氏の義弟という立場が財務省寄りの姿勢を強化
党務運営・野党協議が主任務で経済政策への直接関与は限定的
片山財務相 2025年3月に「120円台が実力との見方多い」「物価高の沈静化に向け円高進行が望ましい」と明言
2025年11月に「円安のマイナス面が目立ってきた」と円安懸念を表明
元主計官として財政実務に精通
女性登用重視の人事で経済政策理念より象徴性優先
構造的円安要因(日米金利差、経常収支構造)には対処困難
為替介入の手段は限定的で口先介入に留まる可能性
高市政権の財務相指示書に「為替安定」の文言なし
政策ブレーン 財政拡大に前向きな立場のエコノミストが複数の政府会議に任命
財政・金融・成長戦略を一体で検討する体制
本田悦朗元内閣官房参与、若田部昌澄元日銀副総裁らリフレ派が中核
「積極財政議連」メンバーが副大臣・政務官に大挙登用
財政規律重視の声は政権内で少数派の可能性
党執行部は麻生派、政務三役は積極財政派と二重構造

2.3 政策ブレーン構成の意味

新設される経済政策関連会議体の民間議員の顔ぶれからは、金融緩和や財政拡張に親和的な有識者が多く選ばれている傾向が観察される。これらの会議体が実質的な政策形成に影響を与えると仮定すれば、利上げの連続性を期待することは難しいとの見方がある。

実際、主要エコノミストの予想では、2026年中の利上げは2回程度(0.5%→0.75%→1.0%)に留まると見られている。市場の金利先物でも、急ピッチな利上げは織り込まれていない。

3. 台湾有事発言がもたらす地政学リスク

3.1 高市政権の台湾問題スタンス

高市首相は2025年11月7日の衆院予算委員会で、台湾有事が日本の集団的自衛権を行使できる「存立危機事態」になり得ると明言した。この発言は従来の政府見解よりも踏み込んだ内容であり、中国側の強い反発を招いている。

この強硬姿勢は、以下の経路で経済的影響をもたらす可能性がある:

  1. 直接経路:対中関係の緊張激化 → 通関遅延・非関税障壁 → サプライチェーン混乱
  2. 間接経路:地政学リスク上昇 → 円の「リスク通貨」化 → 円安加速 → 輸入インフレ
  3. 政策経路:防衛費増額圧力 → 財政拡張 → 長期金利上昇 → 国債費増大

3.2 過去の類似事例との比較

事例①:2010年尖閣衝突事件

政治的出来事:中国漁船衝突 → 船長拘束 → 中国が通関遅延・レアアース輸出管理強化

経済的影響:

  • レアアース価格高騰、ハイテク企業の調達コスト上昇
  • 中国からの日本向けレアアース輸出量が急減(9月から10月で▲90%超の報告)
  • 中国観光客の減少

市場反応:

  • 円:やや円高方向(当時は円がリスクオフ通貨として機能)
  • 株:輸出株・ハイテク株中心に下落

出典:経済産業省「2010年レアアース問題の検証」、東京大学危機対応学研究所資料

事例②:2012年尖閣国有化

政治的出来事:日本の国有化(9月11日)→ 中国国内で反日デモ → 物流・通関・販売チャネル混乱

経済的影響:

  • 日本車のマーケットシェアが急減(業界データでは9-10月平均で約半減)
  • 主要自動車メーカーの11月販売が前年比▲20-30%の報告
  • 日系小売店の一時閉鎖
  • 通関遅延による輸入品の滞留

市場反応:

  • 円:短期的に円高(グローバル景気懸念も重なる)
  • 株:自動車株・精密株中心に大幅下落

出典:MarkLines自動車産業ポータル、各種報道

現在との決定的な違い:円の性質変化の可能性

2010-2012年:地政学リスク → 円高

2025年:地政学リスク → 円安の可能性

この変化の背景として指摘される要因:

  • 貿易収支の構造的悪化傾向
  • 対外証券投資の拡大(構造的な円売り圧力)
  • 経常収支の第一次所得収支依存への移行
  • 国際金融市場における円の位置づけの変化

3.3 「数量ショック」の特性

過去の日中摩擦事例において、中国は以下のような非関税障壁的措置を活用してきた:

  • 通関検査の極端な厳格化(意図的遅延)
  • 衛生・安全基準の恣意的適用
  • 観光客の団体渡航停止・制限
  • 国内メディアを通じた不買運動の扇動
  • 現地日系企業への間接的圧力
重要な特性:これらの措置は関税のような「価格ショック」ではなく、「数量ショック」として作用する。価格メカニズムを通じた調整が働きにくいため、経済的影響の予測が困難となる。サプライチェーンの寸断、在庫積み増しによる資金繰り悪化、代替調達先確保の困難など、企業経営に直接的な影響を与える可能性がある。

4. 現在の構造的状況:期待と現実

4.1 「麻生ブレーキ」への期待と現実

政権発足時、市場では麻生太郎副総裁による政策運営への影響に期待する向きがあった。しかし、2025年11月中旬時点での市場動向は、この期待が十分に実現していない可能性を示唆している。

要素 期待された影響 観察される状況
人事 経済政策への実質的関与 市場反応は限定的
財政規律 放漫財政の抑制 「責任ある積極財政」という方針
金融政策 利上げ継続への支持 市場は1-2回程度の利上げを織り込み
連立運営 維新による財政健全化圧力 少数与党ゆえの政策形成の複雑化

4.2 片山財務大臣の過去発言と市場の見方

片山さつき財務大臣の就任は、一部で円高材料と捉えられた。片山氏は2025年3月のロイターインタビューにおいて、以下のような認識を示していた:

片山財務大臣の過去発言(2025年3月、自民党金融調査会長として): • 「120円台の時期が長かったので、120円から130円が実力との見方が多い」 • 「物価高の沈静化に向け円高進行が望ましい」 • 「為替介入はきっかけにはなるが、長期的には効果があまり大きくないので、 根本的な対策が必要」

しかし、市場関係者の間では、「通貨・金融政策の方向性を修正した程度では、円安相場の根本的な解決には至らない」との見方が強い。国際収支構造の変容という構造的要因が円安の底流にある場合、人事や政策スタンスの微調整では本質的な転換は困難との指摘がある。

4.3 少数与党という政治的制約

自民・維新連合は、衆議院で465議席中231議席、参議院で248議席中120議席を確保しているが、それぞれ過半数には達していない。この政治的状況は、以下のような影響をもたらす可能性がある:

  1. 法案通過のため野党の要求を取り込む必要性
  2. 支持率低下時の対症療法的政策への誘因
  3. 「効果的な投資」という名目での財政拡張の正当化
  4. 維新との合意における曖昧な表現(「責任ある積極財政」と「歳出改革」の並記)

5. 円安メカニズムと金融政策の限界

5.1 「金利経路の限界」という認識

2025年11月現在、円金利上昇と円安の同時進行という状況が継続している。この現象は、伝統的な金利平価理論では説明が難しく、より深層的な構造変化を示唆する可能性がある。

市場の認識:
円金利上昇と円安の同時進行が観察される状況下、金利経路のみでは円安を抑制できない構造的問題が存在する可能性を認識すべき局面にある。

5.1.1 中立金利との関係

日銀が推計する自然利子率のレンジ(実質の中立的な金利)は▲1.0%から+0.5%の範囲にあるとされ、物価目標2%を加味した名目ベースの中立金利は概ね1〜1.5%程度と推計される。現在の政策金利は0.5%にとどまり、中立圏まではまだ距離がある。仮に日銀が0.25%ずつ利上げを続けても、中立金利に到達するのは2026年中頃になる計算である。 しかし、ここで重要なのは「中立金利まで金利を引き上げれば円安が収束する」という単純な構図が成り立たない点である。円の値動きが内外金利差だけで説明できた時期とは異なり、現在の円安は複合的な構造要因に支えられている可能性がある。日本の貿易収支は恒常的な赤字に傾き、所得収支が経常黒字の主因となっているものの、海外投資から得られる利子や配当が必ずしも円に転換されるわけではない。また、年金・保険・投信による対外証券投資は長期的な円売りフローを生み、円が安全資産として買われる局面も以前より弱まっている。 こうした需給構造の変化が円安の底流にある場合、中立金利に相当する水準まで政策金利を引き上げても、為替の反転を促す力は限定的となり得る。中立金利は景気を判断する物差しであり、為替を決定する水準ではないため、金利を中立圏に戻しただけでは円安の根本的な圧力が解消されない可能性が指摘されている。

5.2 国際収支構造の変容

2024年の財務省懇談会等で問題提起されているように、日本の国際収支構造は大きく変容している:

項目 1990年代~2000年代 2020年代
貿易収支 恒常的黒字 エネルギー価格上昇時は大幅赤字化
第一次所得収支 補完的役割 経常黒字の主要源泉
対外資産運用 円キャリー取引の巻き戻しリスク 構造的な対外証券投資(円売り圧力)
円の性質 安全資産・リスクオフ通貨 リスク通貨化の可能性

5.3 輸入物価インフレの伝播メカニズム

円建て輸入物価指数の動向は、今後の経済情勢を占う重要な指標として市場で注目されている。

円建て輸入物価指数の推移(日本銀行統計): • 2019年平均:111.5(パンデミック直前の水準) • 2020年平均:100.0(基準年) • 2022年ピーク:180台後半(基準年比約1.8倍) • 2023年半ば以降:160前後で推移 • 2025年初来平均:157.4(2019年比+41%) ※ 2025年4月以降の円安の影響が3-6か月ラグで反映される場合、 近く上昇に転じる可能性が指摘されている

市場で注目されているのは「変化率」に加えて「水準」である。2019年比で40%以上高い水準が続いており、これが家計の実質所得を圧迫している。ここからさらに上昇すれば、世論の反応が強まる可能性があると観察されている。

6. 日中摩擦×円安の複合ショック:前例なき組み合わせ

6.1 歴史的に新しい「悪性の組み合わせ」

今回の状況が過去と決定的に異なる可能性があるのは、「数量ショック」と「円安ショック」が同時に発生しうるという点である。

過去の事例(2010年、2012年):

  • 中国からの数量ショック(通関遅延、不買運動等)
  • + 円高(リスクオフによる円買い)
  • = 輸出企業の収益悪化、ただし輸入物価は安定

現在のリスクシナリオ(2025年):

  • 中国からの数量ショック(同上)
  • + 円安(地政学リスク+政策期待による円売り)
  • = 輸出企業の収益悪化+輸入インフレ加速=実質所得の二重の圧迫

6.2 産業別の潜在的影響

産業 数量ショックの潜在的影響 円安の影響 複合的リスク
自動車 中国販売の大幅減少の可能性 輸入部品コスト上昇 深刻
電子部品 通関遅延、在庫積み増し 代替調達コスト増 深刻
小売・サービス 中国人観光客減少の可能性 仕入れコスト上昇 深刻
素材・化学 輸出規制強化の可能性 エネルギーコスト増 深刻
金融 間接的影響(企業業績悪化) 為替リスク 中程度

6.3 マクロ経済への波及経路

日中摩擦と円安の複合ショックは、以下の経路でマクロ経済に波及する可能性がある:

  1. 総需要への影響:
    • 輸出減少(中国向け減少、価格競争力向上も数量制約で相殺される可能性)
    • 個人消費減少(実質所得低下、インフレ加速)
    • 設備投資減少(企業収益悪化、不確実性増大)
  2. 総供給への影響:
    • サプライチェーン混乱による生産能力低下の可能性
    • 中間財・原材料の調達コスト上昇
    • 代替調達先確保のための時間・コスト
  3. 物価への影響:
    • 輸入物価上昇(円安効果)
    • 国内供給制約によるコストプッシュ型インフレの可能性
    • 「悪いインフレ」の長期化リスク

7. 政策対応の課題と矛盾

7.1 日銀の政策ジレンマ

日本銀行は、以下のような複数の課題に直面している可能性がある:

課題①:利上げの効果と限界

  • 利上げする場合:国内景気への下押し圧力、企業収益への影響
  • 利上げしない場合:円安加速リスク、輸入インフレ悪化リスク
  • 不確実性:利上げしても円安が止まらない可能性(構造的要因の場合)

課題②:政治的環境との関係

  • 政権側:リフレ志向、連続利上げへの慎重姿勢
  • 世論:物価高への対応要求の可能性
  • 課題:中央銀行の独立性維持と政治的現実のバランス

課題③:タイミングの判断

  • 早期の政策変更:景気腰折れリスク、政権との関係
  • 政策変更の遅延:インフレ期待の上昇リスク、為替市場の不安定化リスク
  • 課題:「適切な」タイミングの見極めの難しさ

7.2 財政政策の課題:「責任ある積極財政」の解釈

高市政権が掲げる「責任ある積極財政」という概念には、以下のような解釈の余地が存在する:

  • 「積極財政」:需要拡大を通じた経済成長促進
  • 「責任ある」:財政健全化目標への配慮
  • 両者の整合性:名目GDP拡大による債務/GDP比改善が前提の可能性
  • 政治的制約:少数与党ゆえの政策形成の複雑化
わざわざ「責任ある」という修飾語を付ける必要がある時点で、無制約な財政拡張への懸念が背景にあると解釈できる。つまり、この表現は金融市場の過度な反応を抑制するための配慮と見られている。

7.3 為替介入の限界

為替介入については、片山財務大臣自身が過去に「長期的には効果があまり大きくない」と認めている。過去の経験からは以下の限界が指摘される:

  1. 規模の限界:外貨準備は有限であり、市場規模に対して相対的に小さい
  2. 持続性の課題:介入停止後のリバウンドリスク
  3. 市場の学習効果:「介入で円高→利益確定売り→再び円安」のサイクル
  4. 根本原因への効果:構造的要因には直接対処できない

市場では、「為替水準での対応は既に遅れている」との見方も。160円という水準に接近してから対応を始めても、既に輸入物価経由でのインフレを相当程度許容した後であり、その時点での政策変更の効果は限定的となる可能性がある。

7.4 日本経済構造上の課題(リフレ政策が効きにくい土台)

要素 期待された影響 観察される状況
賃金決定メカニズムの硬直性 物価上昇が賃金に波及し、需要主導のインフレが定着 春闘中心の年1回交渉と企業別組合が主流で、物価上昇が賃金に結び付きにくい。
正社員・非正規の二重構造が残り、企業は賃上げより内部留保を優先。
財政・金融政策の不整合 金融緩和と財政拡大が連動し、総需要が拡大 金融緩和と並行して消費税増税が実施され需要を相殺。
社会保障費の自然増で裁量的財政余地も限定。
ゼロ金利・マイナス金利制約 低金利が投資・消費を促進し、物価と需要が上昇 金利の下限が近く政策余地が少ない。
低金利長期化で銀行・保険の収益が圧迫され信用供給が慎重化。
人口減少・潜在成長率の低下 期待インフレにより消費・投資が前倒しで増加 生産年齢人口の縮小と高齢化で市場成長期待が低下。
将来不安が貯蓄志向を強め、投資・消費が伸びない。
価格転嫁文化の弱さ 需給改善に応じて柔軟に価格が上昇し、インフレが定着 長期取引慣行や価格据え置き文化が強く、値上げが進みにくい。
価格競争依存で名目価格調整が遅い。
家計の将来不安と低い消費性向 期待インフレが消費を前倒しし、経済が活性化 年金・医療・介護への不安が大きく貯蓄が優先。
非正規雇用増加が消費を抑制し、期待の変化が行動に反映されにくい。
企業収益と分配構造のミスマッチ 企業利益が賃金や投資に回り、需要拡大の好循環を形成 企業収益は高水準でも内部留保が優先され、国内投資や賃上げが限定的。
グローバル企業は投資先を海外にシフトしやすい。
円安依存と国内需要ルートの弱さ 金融緩和が国内需要を直接押し上げインフレが安定化 物価上昇が円安経由に偏り輸入物価を押し上げやすい。
利益増は海外投資や配当へ流れ、中小企業はコスト増のみ負担。

8. シナリオ分析:中期的展開

8.1 ベースラインシナリオ:「緩慢なる調整の継続」

このシナリオでは、台湾情勢が現状維持され、大きな軍事的緊張が生じないことを前提とする。日中関係においては緊張はあるものの、直接的制裁措置には至らない状況を想定している。金融政策については、2025年12月または2026年1月に1回の利上げが実施され、政策金利が0.75%へ引き上げられることを見込んでいる。円相場は150円から160円のレンジでの推移が続くと考えられる。

このような前提の下で、2025年11月から12月にかけて輸入物価指数が上昇に転じ、CPI加速の可能性が高まると予想される。2026年1月から3月にかけては、実質賃金のマイナス幅が拡大し、消費者マインドが悪化する可能性がある。2026年4月から6月の春闘では賃上げ率は高い水準となるものの、実質所得の改善は限定的にとどまる可能性が高い。

経済的帰結としては、GDP成長率が低成長となり、潜在成長率を下回る可能性がある。CPI上昇率は日銀目標を上回る可能性があり、実質GDPは横ばいから微減の範囲で推移する可能性がある。このシナリオの蓋然性は相対的に高いと評価される。これは現状の延長線上にある展開であるためである。

8.2 楽観シナリオ:「早期の政策調整」

楽観シナリオでは、輸入物価指数の動向を受けて政権が早期に政策姿勢を調整し、日銀が予想より早く連続利上げに踏み切ることを前提とする。また、財政面では歳出効率化路線が優勢となることを想定している。

この場合、2026年上半期に複数回の利上げが実施され、円相場は145円程度まで円高が進行する可能性がある。これにより輸入物価上昇圧力が緩和される。経済的帰結としては、GDP成長率は緩やかな成長を維持する可能性があり、CPI上昇率は目標圏内に収束する可能性がある。また、市場の信認が維持され、長期金利の安定化が実現する見通しである。

ただし、このシナリオの蓋然性は相対的に低いと評価される。政策の柔軟な転換が前提となるためである。

8.3 悲観シナリオ:「複合危機の顕在化」

悲観シナリオでは、台湾海峡で軍事的緊張が高まり、中国が経済的措置で対応することを前提とする。日銀は政治的環境の制約により利上げを躊躇し、円相場が160円を突破する状況を想定している。

このシナリオは三つの段階で展開する可能性がある。第1段階では、中国が日本製品の通関を厳格化し、日本からの輸出が減少することで円相場がさらに下落する。第2段階では、輸入物価指数が大幅に上昇し、CPIが加速するとともに実質賃金が大幅なマイナスとなる。第3段階では、政権支持率が急落し、緊急的な政策対応が取られるものの、その効果は限定的にとどまる。

経済的帰結としては、GDP成長率がマイナス成長となる可能性があり、CPI上昇率は大幅に上昇してスタグフレーション的様相を呈する。株価は大幅に下落する可能性があり、長期金利には上昇圧力がかかる。このシナリオの蓋然性は相対的に中程度と評価される。外生的要因への依存度が高いためである。

なお、これらのシナリオの蓋然性については、市場のプライシングや外部調査の数値に依拠したものではなく、筆者自身の感覚に基づく相対評価である。特に悲観シナリオは、台湾海峡の緊張など特定の外生ショックの発生を前提とするため、通常のマクロ指標が連続的に変化するケースとは異なる。むしろ、ある条件が重なった瞬間に非線形的に跳ねるタイプのリスクであり、「外生要因が引き金となる場合に顕在化し得るシナリオ」との位置付けである。

9. 結語

高市政権が直面している経済的課題は、単に短期的な景気循環やマクロ経済政策の問題に留まらず、日本経済の構造変化と国際経済環境の変容が交錯する転換点における複合的な課題である可能性がある。

過去の日中摩擦事例が示すように、中国の経済的措置は「数量ショック」として実体経済に直接的な影響を与える可能性がある。それが構造的円安と同時に発生すれば、輸出企業への影響と輸入インフレの加速という二重の圧力が生じる可能性がある。この組み合わせに対して、どのような政策対応が実際に採られるのか、そしてそれがどのような帰結をもたらすのかは、今後の実証的検証を待つ必要がある。

ただし、一つ確実に言えることは、歴史的にインフレは既存政権の支持率に負の影響を与える傾向があるという経験則である。高市政権がこの歴史的パターンから逸脱できるかどうかは、政策の柔軟性、世論の反応、そして外生的な経済環境の展開に依存している。

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