「大人って、いつから楽になるん?」について
子どもにこう聞かれたら、どう答えるだろうか。
「大人って、いつから楽になるん?」
宿題がなくなる。門限がなくなる。好きなものを買える。けれど、大人の側はたいてい苦笑いする。SNSで目に入るのも、悩みから解放された姿というより、仕事、人間関係、お金、税金、育児、介護、見えない不安についての話は多い。では、楽になる日は来ないのか。
この問いを考えるとき、まず「大人になると自由が増える」といった制度の話から入ることもできる。だが、その前に、もう少し脳の働きのほうへ思いを向けてみたい。人は条件がよくなればそのまま素直に楽を感じ続けられる、というほど単純にはできていなさそうではある。
何もしなくていい状態は、本当に楽なのか
まず確認しておきたいのは、負荷がゼロの状態と、心地よさとは同じではないということだ。
バージニア大学のティモシー・ウィルソンらが2014年に発表した実験がある。被験者を何もない部屋に15分間ひとりにして、「ただ考えごとをしていてください」と伝える。部屋には自分に電気ショックを与えるボタンだけが置いてある。事前のアンケートで「お金を払ってでもこのショックは避けたい」と答えた人たちのうち、男性の67%、女性の25%が、15分間のあいだに自らボタンを押した。退屈に耐えるくらいなら痛みのほうがまし、という選択をしたわけである。
脳の働き方を見ても、それに近いことが言える。外からの課題に集中していないとき、脳は休んでいるわけではない。デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と呼ばれる領域群が活発になり、過去を思い返したり、先のことを想像したり、自分のことをあれこれ評価したりする。この活動は自己理解や創造性にもつながる大事な働きだが、fMRIを使った研究では、DMNは心のさまよいや自己参照的思考と関係し、とくに反すうや不快な自己注目と結びつくことがある。
つまり、何もしなくていい状態が、そのまま安らぎになるとは限らない。空白が増えると、脳は勝手にその空白を埋めはじめる。しかも、その中身は楽しい空想より、気がかりや反省に寄りやすい。「楽になったはずなのに、なんだか落ち着かない」は、気のせいではない。
人は、負荷そのものを嫌っているわけでもない
経済学の教科書では、労働はコスト、余暇は財として扱われる。もちろん大枠ではその通りだが、現実の感覚はそこまで単純ではない。
努力にはたしかにしんどさがある。だが同時に、達成感や手応え、自分は役に立っているという感覚も生む。心理学者のチクセントミハイが「フロー」と呼んだ状態――課題の難しさと自分の技量がちょうど釣り合い、時間の感覚を忘れるほど没頭している状態――では、ストレスホルモンであるコルチゾールの水準が下がり、主観的な幸福感が高まることが報告されている。ポイントは、フローが生じるのは負荷がゼロのときではなく、適度に高いときだという点だ。
自由時間についても似たことが言える。ペンシルベニア大学のマーリッサ・シャリフらが2021年にアメリカの大規模調査データを分析したところ、一日の自由時間が2時間を下回ると幸福度は明確に下がるが、5時間を超えてもやはり下がりはじめる。少なすぎれば苦しいが、多すぎても張り合いを失いやすい。必要なのは負荷の完全な消滅ではなく、自分なりに納得しやすい重さなのだろう。
長い休暇の途中で、少しだけ仕事が恋しくなることがある。手のかかる料理、DIY、ゲームのやり込みのように、わざわざ手間や負荷のあることに没頭しているほうが落ち着くこともある。人は、負荷から逃れたいと言いながら、負荷が消えすぎると、今度は自分で新しい面倒を発明する。SNSで、わざわざ消耗するレスバに引き寄せられてるのも、その一つかもしれない。人によっては、草コインのような投機に向かうこともあれば、投資用マンションのような長い負担を引き受けることもある。
では、大人は何が違うのか
ここで冒頭の問いに戻る。
大人になると、やることの総量が減るわけではない。むしろ責任は増え、体力は落ちる。年齢を重ねれば自動的に楽になる、という意味での魔法の年齢は、たぶんない。
それでも、子どものころと同じではない。大きく変わるのは、負荷そのものが消えることではなく、どの負荷を引き受けるかについて、少しずつ裁量が増えることだ。
ただし、その裁量は人間の本質として自然に与えられるものではない。かなりの部分は制度によって配られている。住む場所を選ぶ自由、契約する自由、働き方を変える自由、投票する権利。近代社会は、そうした自己決定の多くを大人に優先的に配分している。
逆にいえば、子どものしんどさには、つらくても自分で動かせない、という不自由が強く混じっている。学校に行くかどうかを自分で決めにくい。誰と暮らすかを選べない。生活の基本条件を、自分で組み替えにくい。子どもの問いに切実さがあるのは、そのためでもある。
この「自分で選んでいる」という感覚は、心理的にも無視できない重さを持つ。デシとライアンの自己決定理論では、自律性(autonomy)・有能感(competence)・関係性(relatedness)の三つが内発的動機づけの基盤とされるが、なかでも自律性――自分の行動を自分で決めているという感覚――が欠けると、同じ負荷でも消耗の度合いが大きくなることが繰り返し示されている。同じ重さの荷物でも、自分で選んで背負っているのと、誰かに背負わされているのとでは、疲れ方が違う。大人の「楽」があるとすれば、その差のことだろう。
幸せって、何だろう
ここまで来ると、問いは少し変わる。大人はいつから楽になるのか、というより、そもそも人はなぜ、楽になっても楽のままでいられないのか、という問いになる。
心理学では「快楽順応(hedonic adaptation)」と呼ばれる現象がよく知られている。宝くじの当選者を追跡した古典的研究(ブリックマンら、1978年)では、当選から数か月も経つと、当選者の日常的な幸福度は当選前の水準に近いところまで戻っていた。逆に、事故で脊髄を損傷した人たちも、時間が経つにつれて、一般に想像されるほど一方向に不幸へ固定されるわけではなかった。もちろん個人差は大きいが、良いことにも悪いことにも、人はある程度は慣れていく。
進化に目的があったわけではないが、結果として残りやすかったのは、安心しきって立ち止まる個体より、不安を先回りし、足りないものに敏感でいつづける個体のほうだったのではないか。幸福感が長続きしにくいのは、主観的には面倒でも、生存にとっては都合がよかったのだろう。脳にとって幸せは、最終目的というよりも、生き残りに有利な行動をうながすための一時的な報酬に近い。
だから、問題が片づいても安心が永続しないのは、ある意味では正常な脳の働きでもある。荷物が減っても、脳は空いた場所に別の気がかりを入れる。生きているのに満たされないという感覚は、本人の弱さではなく、かなり構造的なものだ。
そう考えると、幸せを「ずっと気分がいい状態」と定義してしまうと、脳の仕組みそのものと戦うことになる。自分にとって意味のある負荷を、ある程度の裁量をもって引き受けられている状態――それくらいに考えたほうが、現実には近いのだと思う。
最初の問い
「大人って、いつから楽になるん?」
たぶん、楽にはならない。荷物が消えて、脳まで静かになる日は来ない。DMNは回りつづけ、快楽順応は働きつづけ、脳は次の不足を探しつづける。
大人になれば自動的に自由になるわけでもない。社会的圧力に縛られ、自分の裁量をほとんど持てないまま生きている人も多い。それでも子ども時代と比べれば、どの荷物を持つか、あるいは少なくとも持ち方をどう変えるかについて、わずかながら選び直せる余地が生まれることがある。その「自分で引き受けている」という感覚が、同じ重さの負荷を少しだけ軽くする。おそらく大人の自由とは、自分で引き受ける不自由を、条件の許す範囲で配分し直せることなのだろう。その条件は人によって大きく異なる。お金、居住地、職歴、学歴、健康、しがらみ、等によって、選び直せる幅はかなり違う。若い頃に刻まれた不足感やトラウマが残っていれば、選べるはずの自由もうまく使えないこともある。
もっとも、選べるからこそ別の後悔や比較が生まれることもある。脳は、幸せにとどまるためより、生き残るために動きつづけるほうを優先する。その設計を変えることはできない。できるのは、その設計を知ったうえで、自分の荷物を選び直すことくらいだ。
それは、楽になるそのものではなく、生き残るための持ち方を見つけていくことなのだと思う。
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