なぜ「通貨介入」は円安トレンドを変えられないのか~数字上の制約~
2025年11月、円相場は再び1ドル157円台という危険水域に突入している。 片山さつき財務大臣は「介入も当然考えられる」と市場を牽制したが、相場の反応は限定的である。 介入には構造的な限界があることを、市場がすでに織り込んでいるためだとも言える。
以下、為替介入が構造的に抱える制約を考察する。
1. 規模の限界:コップの水 vs 大河の流れ
為替介入を論じる際、まず直視すべきは市場規模と介入原資の圧倒的な非対称性である。
市場の規模
国際決済銀行(BIS)の2022年調査によれば、世界の外国為替市場の1日あたりの平均取引高は約7.5兆ドル(約1,150兆円)に達する。 このうち円が関与する取引は約1.25兆ドル/日(約190兆円/日)である。
日本の「弾薬」
一方、日本が介入に使える外貨準備高は、2024年10月末時点で約1兆2,390億ドル(約193兆円)である。 一見すると巨額だが、その内訳は以下の通りだ。
- 証券(米国債等):約9,211億ドル(74.4%)
- 預金(現金):約1,593億ドル(12.9%)
- その他(金・SDR等):残り
即座に介入原資として活用可能なのは、原則として「預金」の約1,593億ドル(約25兆円)である。 証券については、2022年および2024年の介入時に米国債を売却してドルを調達した実績があるが、 大規模な売却は米国債市場への影響や米国との政治的関係を考慮せざるを得ない。
数字が示す現実
過去最大級の介入である2024年4〜5月の円買い介入は、約9.8兆円(約650億ドル)であった。 これを円市場の1日分の取引量(約1.25兆ドル)と比較すると、わずか5%程度にすぎない。
巨大な市場の奔流に対して、日本が投入できる資金は「バケツ数杯の水」程度である。 一時的な攪乱にはなっても、水流の逆転には至らない──これが現実である。
2. 持続性の課題:「弾切れ」と市場の読み
円買い介入には、円売り介入とは決定的に異なる制約がある。
円売り介入との非対称性
過去(2011年など)の「円売り・ドル買い介入」は、日本銀行が円を供給すれば理論上無限に実施可能であった。 しかし現在の「円買い・ドル売り介入」は、手持ちのドルが尽きれば終了である。
市場に見透かされる限界
投機筋(ヘッジファンド、アルゴリズム取引)は、財務省が「あとどれだけドルを売れるか」を計算している。 現金ベースで約25兆円、米国債売却を含めても実務的に動員可能な額は100兆円規模が限界とみられる。
2022年の介入(約9.2兆円)、2024年4〜5月の介入(約9.8兆円)、同年7月の介入(約5.5兆円)を合計すると、 既に約24.5兆円が消費されている。 市場が「弾が尽きそうだ」と判断すれば、介入の手が止まった瞬間に猛烈なリバウンド(買い戻し)が発生する。 これが2024年〜2025年に繰り返された光景である。
3. 市場の学習:イタチごっこ
市場参加者は、財務省の介入パターンを学習している。
パターンの露呈
「160円に近づくと介入が入る」と分かっていれば、投機筋は159円台で売り抜け、 介入で150円台前半まで下がったところで「安くドルを買い直す」というボーナスタイムとして利用する。
実際、2024年4月29日の介入後、円は一時154円台まで上昇したが、約2ヶ月後には再び160円に接近した。 同年7月の介入でも同様のサイクルが繰り返された。
悪循環のメカニズムの例
- 円安進行(155円→160円)
- 介入で急落(→153円)
- 投機筋が利益確定&再エントリー
- 再び円安へ(→158円超え)
このサイクルにより、介入は「投機筋への利益供与」にしかなっていないという批判もできる。
4. 根本原因への無力:金利差という重力
これが最大の要因である。現在の円安の主因は日米金利差という構造問題にある。
現状
- 米国:インフレ再燃懸念やトランプ次期政権の財政拡張観測により、政策金利は4%近辺で推移
- 日本:日銀は利上げを模索しているものの、政策金利は0.5%程度に留まる
物理法則としての金利差
金利の低い通貨(円)を売り、高い通貨(ドル)を持つだけで年間約4%の金利差(スワップポイント)が得られる以上、 介入で一時的に円高になっても、「放っておけば円が売られる」という重力は消えない。
介入は、重力に逆らってボールを空中に放り投げるようなものである。いずれ落ちてくる。
5. 「既に手遅れ」という現実:定着したインフレ
為替水準での対応は既に遅れている。これが最も痛烈な事実である。
輸入インフレの不可逆性
2024年〜2025年にかけて、企業は「1ドル=150円〜160円」を前提とした価格転嫁(値上げ)が進行している。 (エネルギー、食料、原材料──あらゆる輸入品の価格が上昇)
政策の非対称性
- 円安が進むとき → 即座に物価が上がる
- 介入で円高に戻るとき → 物価は下がらない(価格の下方硬直性)
為替レート変動が国内物価に与える影響については、タイムラグと調整速度の違いが観察される。円安局面においては、輸入財価格の上昇が比較的速やかに国内物価に転嫁される傾向がある。2022年以降の急激な円安局面では、エネルギーや食料品を中心に輸入物価の上昇が消費者物価に波及した。では、円高局面ではどうだろうか。
日本における1990年代後半から2010年代前半の長期デフレ期には、円高と物価下落が同時に進行した。この時期、円高は輸入物価の低下を通じてデフレ圧力を強める一要因として作用していた。
しかし、2022年以降の局面は過去のデフレ期とは構造的に異なる可能性がある。第一に、グローバルなインフレ圧力が存在し、エネルギーや食料品の国際価格が高水準にある。第二に、企業の価格設定行動が変化しており、コスト増を価格転嫁する姿勢が定着しつつある。第三に、賃金上昇が本格化し始めており、賃金と物価の相互作用というデフレ期には見られなかったメカニズムが働いている。
このため、仮に為替介入等により円高方向への調整が実現しても、過去のデフレ期のように物価下落圧力として作用するかは懐疑的だ。むしろ、円安による物価上昇は生じるが、円高による物価下落は限定的という非対称性が生じる可能性がある。これは、デフレからインフレへのレジーム転換が進行している場合に特有の現象とも考えられる。
つまり、157円や160円で慌てて介入しても、国民生活を直撃しているインフレを押し戻す効果はほとんど期待できない。 「高コスト体質だけが残る」という最悪の結果が待っている。
為替パススルーの非対称性:為替レート変動が国内物価に与える影響には非対称性が存在することが、複数の実証研究で示されている。Campa & Goldberg (2005)は主要国の輸入価格データを用いて、通貨安の際の価格上昇圧力が通貨高の際の価格下落圧力よりも強いことを報告している。Gopinath & Itskhoki (2010)は、メニューコストと価格調整の頻度の観点から、この非対称性の理論的基盤を提供している。
結論:介入は「時間稼ぎ」でしかない
片山財務大臣の牽制発言に市場が動揺しなかったのは、上記の構造的限界を市場が捉えている可能性を感じる。
- 介入原資(現金)は約1,593億ドルという有限の枠内にある
- 対する円市場は毎日約1.25兆ドルが回転する巨大な需給の場である
- 根本原因である日米金利差は介入では解消できない
「弾薬」を浪費するだけの介入よりも、根本的な金融政策の修正(利上げ)や経済構造の転換なしには、 この円安トレンドを変えることは不可能である。 介入はあくまで「時間稼ぎ」であり、トレンドそのものを変える力は持ち得ない。これが不都合な現実である。
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