Brexit.xlsm ~「最終セルの直書き」からの循環参照・計算不能~

Brexit型国民投票は制度設計上のバグか?
このコラムの読了目安は10分ほどです。内容は(しつこく)ブレグジットです。国民投票について考えると、#VALUE! や循環参照 が頭に浮かぶのです。そうした違和感を『Brexit.xlsm』として出力した批評的な読み物です。お時間のある方は、「なぜBrexitで英国がこれほどグダグダになったのか」英国ワールドを覗いていってください。

国民投票のバグ

2016年のBrexit国民投票から、すでにかなりの時間がたった。それでもロンドンで政治の話題になると、「あの国民投票は結局なんだったのか」という問いが、いまでもふっと顔を出す場面は少なくない。とりわけ印象的なのは、当の本人であるDavid Cameron自身が、のちにBrexitを “a mistake” と評し、さらに “we have taken the wrong course” と「誤った道を選んだ」と振り返っている点だ。

ただし、そこでは結果への評価は語られても、民意が確定したその後に、制度設計そのもののどこに問題があったのかまでは、具体的に掘り下げられることは少ない。そのため、「では何がどこで間違っていたのか」という中身になると、議論は途端にぼやけてしまう。

公の場では、「国民の意思が直接示された」と整理する他ない。一方で、その後に続いた長い交渉と混乱を振り返ると、実態としては「そもそもあの問い方や設計そのものに、どこか構造的な欠陥があったのではないか」という感覚を抱く人も多い。まずは、そのとき有権者の考えがどのように揺れ動いていたのかを、簡単に振り返ってみたい。

Brexit opinion polling trend
(図:Brexit世論調査の推移)

グラフを見ると分かるように、Brexitをめぐる世論は投票前後で一方向に固まっていたわけではない。むしろ、Leaveが優勢になった期間はむしろ短く、その「ごく短い瞬間のスナップショット」が、二者択一の仕組みのなかでそのまま永続的な結論として固定された、という構図が浮かび上がる。

これは一つ目の不安定さである。世論という本来は時間とともに変動するものが、ある一時点の状態だけを切り取られ、取り消しも修正もきかない形で国家の意思として固定されてしまうという時間構造の問題だ。

だが、Brexit 型の国民投票が抱えていた問題は、単なる世論の揺れや偶然性ではない。より本質的なのは、何が具体的にどう変わるのかという制度の中身がほとんど定義されないまま、「残るか、離れるか」という方向だけを先にYes/Noで問うように設計されていた点にある。これは結果論ではなく、投票の時点ですでに組み込まれていた制度設計上の欠陥だ。

これは結果論でも、単なる運の悪さでもない。投票の時点ですでに組み込まれていた制度設計上の構造的な欠陥(バグ)だ。

このコラムで扱いたいのは、まさにこのバグの性質である。制度案や条文がきちんと書き上がったうえで最終承認を問う国民投票ではなく、中身がほとんど固まらないまま「進路だけ」をYes/Noで問うタイプの投票だ。ここでは便宜的に、これを「定義なき国民投票」と呼んでおく。

一見するとシンプルで分かりやすく、民主的な手続きにも見える。しかし、実際の政策づくりや制度設計のプロセスを思い浮かべると、「このやり方は本当に大丈夫なのか?」という嫌な予感を覚える人も多いだろう。その感覚を共有するために、ここからは国民投票を巨大なエクセルファイルに見立てて考えてみたい。

制度や政策は、本来なら膨大な前提条件が積み上がり、相互に参照し合う複雑な関係式で成り立っている巨大なエクセルモデルに近い。ところがBrexitでは、そのモデルの最終アウトプットに当たるZ100セルに、手入力が直書きされた。

Z100をいったん上書きしてしまうと、モデル全体はその値に合わせて後から整合性を取らされる。本来は前提や計算式に触れることのない非担当者が、VBAや参照関係をすべてスルーして最終セルだけを書き換えると、A列(前提)、B列(中間計算)、C列(制度的前提)のすべてが、その結論に合わせて組み替えを迫られる。これが「定義なき国民投票」が生み出す構造的ゆがみである。

しかも厄介なのは、その入力が明確な目的意識の下で行われたとも言い難い点だ。締切が迫るなか、有象無象のキャンペーンがポップアップのように画面を埋め、警告なのか広告なのか分からないメッセージが点滅し続ける。その雑然としたタイミングで「まあ、これでいいか」と入力された値が、Z100にそのまま確定値として載ってしまった感が否めない。

本稿では、エクセルの論理構造になぞらえた思考実験として整理してみたい。

エクセルで考える政策策定プロセス

政策の検討や効果予測は、本来は次のような手順で行われるものではなかろうか。

  • 多数の前提条件(貿易量、関税、移民制度、司法協力、金融規制など)を設定
  • それらを計算式で結び、シナリオ分析や感応度分析を行う
  • 専門家や官僚、議会でレビューし、エラーや矛盾を潰していく

これは、複雑な関数やリンクでつながったエクセルモデルを思い浮かべるとわかりやすい。 エクセルモデルとは、前提、計算式を経て「最終結果」のセルにアウトプットが表示されるイメージだ。

ここでエクセルを持ち出すのは、単なる分かりやすい例え話のためではない。 政策や法制度が実際にスプレッドシート的な論理構造を持つからだ。

制度経済学が指摘するように、 制度とは相互依存的なルールの体系である。 関税率(A1)が貿易量(B1)を決め、貿易量が雇用(C1)を決め、雇用が税収(D1)を決める。 一つのセルを変更すれば、それを参照する全てのセルに影響が波及する。 英国財務省がBrexit分析で用いたCGEモデルは、家計・企業・貿易などの行動式や均衡条件が相互参照でつながる巨大な方程式体系で構成されており、まさに"多層リンクの塊"のようなモデルである。

法体系も同様に階層的依存関係を持つ。 EU法では基本条約→規則→指令→国内法という入れ子構造があり、 上位規範を変更すれば下位の派生規範を全て見直す必要がある。 Brexit により英国は約2万件のEU由来法令の処理を迫られたが、 これは親セルの値を変えたとき、子セル群の計算式を全て確認する作業に等しい。

政治経済金融での実務でも実際にスプレッドシートが使われる。 EUの規制影響評価、銀行ストレステスト、財政予測モデルなど、 前提条件→計算式→結果という流れは、文字通りエクセルで行われることが多い。 つまり、エクセルで考えることは単なる比喩ではなく、 政策の論理構造と実務プロセスを正確に反映した思考法なのである。

定義なき国民投票は「最終セルを素人が直書きする」構造になりやすい

Brexitでは、次のような重要な設定が未確定のままだった。

  • 移民ルールをどうするのか
  • 関税と非関税障壁をどこまで復活させるのか
  • 金融パスポートや規制同等性をどう扱うのか
  • アイルランド国境をどう処理するのか
  • EU法と英国法の整合性をどう維持・修正するのか

こうした前提条件が未定のまま、 最後の決定セルだけが「EUに残るか、離脱するか」というYes/Noで国民投票にかけられた。

エクセルで言えば、本来はモデルが計算して表示するはずの最終結果セルZ100を、 モデルの構造を理解していない人が手作業で「Leave」と直書きしてしまうような行為である。

ゴールシーク型ロジックと後付けのつじつま合わせ

Z100に「Leave」と手入力してしまうと、その前提になっていた多くのセルの計算式が崩れ、 モデル全体の整合性が取れなくなる。

すると、次のようなプロセスが発生する。

  • まず結果だけが固定される(離脱という結論)
  • その結果に合わせて、A・B・C・・・列の前提を後から書き換えていく
  • つじつまを合わせるために、現実と乖離したロジックや数字が入り込む
  • モデル全体の信頼性が落ち、どこが正しいのか誰にも分からなくなる

政治で言えば、「離脱ありき」のまま、北アイルランド国境、規制同等性、貿易協定などを 無理やり組み立て直すプロセスになり、議論は事後合理化とGoal Seekingに傾く。

このときに流通する説明は、「結果を正当化するための物語」であって、 冷静な影響分析に基づいたロジックとは限らない。 構造的にManipulationと近い状況が生じる。

有権者は「別々の未来像」を思い浮かべて同じ票を投じる

中身が未確定のままYes/Noを問うと、Leave票の内部には まったく異なる期待が混在することになる。

  • 超自由貿易で規制を緩めたい人
  • むしろ規制の強化を望む人
  • 移民だけを絞りたい人
  • 単に現状への不満をぶつけたい人

同じ「Leave」に票を入れていても、頭の中で想像している未来は全く異なる。 そのため、投票後に「どの離脱を実行するのか」で社会が分裂しやすくなる。

循環参照と計算不能の構造イメージ

【正常な計算フロー:一方向】

A列(前提条件)
A1: EU拠出金 = 100億
A2: 移民流入 = 20万人
A3: 貿易依存度 = 45%
B列(中間計算)
B1: 拠出金削減効果
B2: 労働力への影響
B3: 貿易摩擦コスト
Z100(最終結果)
経済影響
= B1+B2+B3
✓ 計算可能

【Z100に「Leave」と直書きした場合】

A列(前提条件)
A1: 拠出金は?
A2: 移民政策は?
A3: 貿易協定は?
❓不明
B列(中間計算)
B1: A列に依存
B2: A列に依存
B3: A列に依存
❓不明
Z100(手入力)
"Leave"
(固定)
⚠ 発生する問題:
① 循環参照: 「Leaveの定義」を決めるには「前提条件」が必要 → 前提条件を決めるには「Leaveの定義」が必要
② 計算不能: 「Leave」だけでは複数の解釈可能(Hard/Soft/Norway型...)→ A列B列に何を入れるべきか確定できない → #REF! エラー(参照先が壊れている)

Brexit での実例:

  • Z100固定: 国民投票で「EU離脱」決定
  • 循環参照: 北アイルランド国境問題(A10)を解決しようとする → 「どこまでEUルールを受け入れるか」が必要 → それは「離脱の定義」次第 → Z100に戻る
  • 計算不能: 同じ「Leave」票でも、Hard Brexit を望む層とSoft Brexit を望む層が混在 → 投票後に「どのLeaveか」で分裂
  • 結果: 交渉が3年間膠着し、議会は機能不全に陥った

こうして、前提条件とアウトプットが互いに整合性を求め合う状態が生まれ、政治的には「循環参照」に近い構造になる。ここでいう「循環参照」は、Excelが警告を出す厳密な技術用語というより、政治過程が相互依存で身動きが取れない状態の比喩として用いている。

たとえば政治過程では、交渉案Aを選ぶと国内政治条件が不成立になり、案Bを選ぶとEU交渉が不成立になり、案Cを選ぶと国民投票の“意味”を満たせないといった具合に、全てのセルが互いに拘束し合う状況が現れた。

このように、どの選択肢も他の制約を崩してしまうため、モデルは一貫した解を見つけられず、「計算不能」=#REF!(参照の破綻)に近い状態へ追い込まれた。

国民投票はいつ「バグ」になるのか

ここまで見てきたのは、Brexitという一つの事例だが、 民主主義の制度として国民投票が「バグ」に近づくのは、次のような条件が重なったときである。

  • 問われている選択肢の中身が未定義のまま、方向性だけをYes/Noで問うとき
  • 専門家による影響分析や制度案のレビューより先に、結論が政治的に固定されるとき
  • SNSや広告などを通じた操作の影響が大きいのに、情報提供やファクトチェックの仕組みが弱いとき

逆に言えば、明確に定義された条文や制度案に対して、十分な情報と時間をかけたうえで、 最終的な承認を有権者に委ねる形の国民投票は、ここで述べた意味での「バグ」とは言い難い。 それは、エクセルで言うなら「すでに計算された結果を採用するかどうか」を確認する手続きに近い。

1. 空白だらけの選択肢

具体的な中身が決まっていないまま「離脱か否か」だけを問うと、 空白部分に誰でも自分に都合の良い物語を流し込める。 Brexit のキャンペーンでは次のような約束が氾濫した。

  • NHS に週 3.5 億ポンド追加投資できる
  • EU 離脱で移民管理が完全に可能になる
  • 貿易条件は今まで通り維持できる
  • コストはほぼゼロで、主権だけ回復する
  • 外国からの制約が消え、世界が英国にラブコールを送る

中身が存在しないからこそ、これらの「ポジティブな未来像」は言い放題になる。

2. 実態のない未来予想図どうしの比較

有権者は、実際の制度案ではなく、 実態のない未来予想図どうしを比較させられる。 どのシナリオも検証可能な中身が薄いため、 事実よりもイメージや感情が投票行動を左右しやすくなる。

学術的には「空虚な選択肢はプロパガンダ耐性が弱い」と表現される。 ここで既に Manipulation の温床が生まれている。

3. 有権者は「別々の未来」を想像して投票

内容が決まっていないと、同じ Leave 票の中に次のような 全く異なる期待が混在する。

  • シンガポール型の超自由貿易を望む層
  • EU より強い規制国家を望む層
  • 移民規制だけを強化したい層
  • とにかく現状が嫌な層
  • EU 憎しのイデオロギー投票

英国政府の公式レビュー(2019)でも、 Leave 票が異なる目的の集合体だったことが指摘されている。

4. 投票後に「どの離脱か」で分裂

投票後になって「どの離脱を実行するのか」が争点化し、 国全体が分裂する。 これは結論から逆算して理由を後付けする 結果オーライ型の意思決定であり、 企業や官庁の世界では教科書レベルで避けるべきプロセスとされる。

理由探しが Goal Seeking と自己正当化に変わり、 構造的に Manipulation を招きやすい状態になる。


問い:「完全な定義」など可能なのか?

ここまでBrexit型国民投票の問題点を展開してきたが、本稿の論調に対しては、次のような批判も成立する。

「すべての前提条件(移民、関税、国境等の詳細)」を完璧に定義してから投票にかけることなど、現実の政治で可能なのか。

詳細を詰めれば詰めるほど争点は細分化し、Yes/Noの二択で問うこと自体が不可能になる。つまり、筆者の言う「バグのない国民投票」は、現実には存在し得ない「理想的なExcelモデル」を求めているに過ぎない、という批判だ。

この指摘は、民主主義のコストを鋭く突いている。しかし、本稿が主張するモデルを、涼しい顔で運用している国が存在する。スイスだ。

スイスの国民発議(イニシアチブ)では、多くの場合「具体的な憲法改正案の条文」そのものを投票にかける。つまり、結果(Z100)だけでなく、その結果を導き出す計算式(A列やB列の定義)をセットにして国民に問うているのだ。

英国の失敗は、定義が不可能だったからではない。政治家が「数式(条文)」を空欄にしたまま投票用紙を配るという、システム設計の怠慢(あるいは意図的な隠蔽)を犯したからに他ならない。「定義は不可能」なのではなく、「定義する責任から逃げた」というのが、スイスの事例から導き出されるもう一つの結論である。


制度設計の失敗は政治家自身が招いた

ここで見落としてはならないのは、この欠陥だらけの国民投票を設計したのは、他ならぬ政治家自身であるという事実だ。

デイビッド・キャメロン首相は、2016年のBrexit国民投票を、党内の反EU強硬派を黙らせ、自身の政治的立場を強化するための道具として利用しようとした。彼は次のような致命的な思い込みのもとで、国民投票を設計した:

  • 「どうせ国民はRemainに投票するだろう」という根拠のない楽観
  • 離脱という結果が現実になる可能性を真剣に考慮しなかった
  • したがって、離脱後の具体的な道筋やプランBを一切用意しなかった
  • EU側との交渉内容や条件を詰めないまま、抽象的な「離脱か残留か」だけを問うた

政治的パフォーマンスとしての国民投票

キャメロンにとって、この国民投票は国家の将来を真剣に問う民主的プロセスではなく、「勝てる」と確信していた政治的ポーズ、人気取りのイベントだった。スコットランド独立投票(2014年)でRemain側が勝利した経験から、今回も同じだと想定していた。

党内の反EU強硬派を黙らせ、「民主的なリーダー」として振る舞い、そして圧勝することでEU残留への支持を固める。それがシナリオで、国民投票は、勝つことが既定路線の「政治ショー」であり、真剣な国民的議論の場ではなかった。

しかし、この想定は完全に外れた。そして結果が自分の想定と異なるものになった瞬間、キャメロンは責任を放棄した。国民投票の翌日、彼は辞任を表明し、自分が設計した欠陥システムの後始末を後任に丸投げしたのである。

「専門家と政治家が決める」という幻想

国民投票の問題点を議論する際、しばしば「具体的な内容は専門家と政治家が詰めてから国民に問うべきだ」という主張がなされる。一見もっともに聞こえるが、Brexit国民投票の失敗は、まさにその「政治家」が引き起こしたという皮肉を忘れてはならない。

エクセルモデルの比喩で言えば:

  • 専門家(官僚、経済学者) = モデルの開発者。複雑な計算式を設計し、前提条件と結果の関係を理解している
  • 有権者 = モデルを見たことがない人。だが最終結果セルに1か0を書く権限を与えられた
  • 政治家 = モデルの中身を理解していなくても、誰がどのセルに何を書けるかを決める権限を持つ人

単純化すると、キャメロンは専門家(モデル開発者)でもなければ、モデルを見たことがない人(有権者)でもなかった。彼はモデルへのアクセス権限を管理する立場にいたプロの政治家だった。そして彼は、専門家が作った複雑なモデルを無視し、「この最終結果セルZ100に直接書き込んでいいですよ」と有権者に許可を与えたのである。

つまり、モデルの保護機能(セルのロック、入力制限、計算式の保護)を全て外し、最も危険な操作を許可したのが政治家だった。それにもかかわらず、彼は:

  • 複雑な政策課題を単純な二者択一に還元した
  • 結果の一つ(離脱)に対する準備を怠った
  • 国民投票の設計において、あらゆる制度的セーフガードを無視した
  • 結果に対する政治的責任を放棄した

無責任な設計の連鎖

それでは、Brexit国民投票の失敗は誰の責任なのか?

間違いなく、有権者には責任の一端がある。

しかし、より根本的な責任は政治家にある。キャメロンは具体的な離脱プランを示さず、二者択一の単純な問いだけを設定した。結果が想定外になると責任を放棄して辞任した。これは明らかに制度設計の失敗である。 国民が誤判断しやすい条件を整えてしまったのも政治側である。キャメロンは「どうせ残留が勝つ」と見誤り、Leave陣営の誤情報を十分に是正せず、専門家の警告が軽視される状況を放置した。国民が判断するために必要な情報提供や熟議の場、現実的な選択肢の提示はほとんど用意されていなかった。

エクセルモデルの比喩で言えば、問題の本質はこうだ。モデル開発者(専門家)は「壊れる壊れる」と警告を発していた。しかし、モデルのアクセス権限を管理する立場にいた政治家は、セルの保護機能を全て外し、誰でも最終結果セルZ100に直接書き込めるようにした。さらに、予期せぬ「あのポップアップは連打したら消えるから無視」という謎攻略法が拡散され、正規の警告メッセージは無視された。そして、モデルが壊れたその瞬間、政治家は退職届をかざし「無敵の人」となった。

国民は確かに最終セルに「1(Leave)」と書き込んだ。しかし、適切なアクセス制限もなく、誤った情報が飛び交い、専門家の分析が無視される環境で、そもそもそのような操作を許可したのは政治家だった。Brexit国民投票の失敗は、国民の判断ミスだけに帰せられない。その判断を誤らせる構造を作ったのは政治家自身である。

国というシステム設計

そして、この問題を許してしまった背景には、個人の資質を超えた、より根本的な国家のシステム設計そのものに深く紐づく構造的な脆弱性が潜んでいる。なぜ、これほど重大な変更が、これほど簡単な手続きで実行可能だったのか。それは英国という国が、ある決定的なセキュリティ機能を欠いていたからに他ならない。

それは憲法だ。

ここで立ち止まって考えたいのは、「EU離脱」という操作が、果たして単なる政策変更や条文修正と同列に扱えるものだったのか、という点である。エクセルモデルの比喩で語ってきたが、EU加盟はしばしば「市民権(Citizenship)」に準えられるように、国家の制度体系の中でもより上位の層に属している。むしろ、関税率や規制のような通常の政策セルとは別次元の、国家そのものの動作環境——いわば「OS(基本設定)」に近い性質を持つ。

ところが英国では、このOSに相当する領域が、通常のエクセルファイルと同じ階層に置かれたまま、特別な保護もなく編集可能な状態に置かれていた。結果として、本来なら別ファイル、あるいはシステム設定として隔離されるべき「EU市民権」という基盤層が、単なるワークシート上のセルと同じ扱いになり、国民投票という単発の操作で直接書き換えることが可能になっていたのである。

この構造的問題を突き詰めると、英国では国家のOSに当たる領域が「エクセルファイルとして実装されていた」という特異な設計に行き着く。なぜこのような状況が生じたのか。その核心にあるのが、憲法という保護レイヤーの欠如である。

英国には憲法「ファイルの保護」がない

なぜ、たった一度の「Z100への手入力」が、システム全体をこれほど簡単に破壊できたのか。その根本原因は、英国が「成文憲法」を持たない(不文憲法である)というシステム環境にある。

日本や米国のような成文憲法を持つ国では、国の根幹に関わる重要な数式(憲法事項)には、強力な「書き込み保護(パスワードロック)」がかかっている。変更するには「両院の2/3」といった特別な解除キーが必要だ。

しかし、英国の「議会主権」というシステムでは、公園のベンチを塗る法律も、EUという巨大な法体系から離脱する法律も、すべて同じ「過半数」で書き換え可能である。

通常の民主主義(成文憲法) 🔒 Protected
  • 重要な数式はロックされている
  • 変更には「特別多数」が必要
  • 51%の勢いではOSを変えられない
英国型システム(不文憲法) 🔓 Unlocked
  • 全てのセルが「一般セル」扱い
  • 普通の過半数で全て上書き可能
  • 51.9%で国のOSごと削除された

もし他の欧州諸国だったら?:憲法という名のファイアウォール

仮に他の主要な欧州諸国で、「思いつきで、法的拘束力のない国民投票を行い、51.9%の賛成で即座に離脱プロセスを開始する」という操作を行おうとしたらどうなるか。多くの場合、憲法裁判所や議会の「セキュリティソフト(違憲審査)」が作動し、「アクセス権限がありません」と弾かれる可能性が高いと考えるのが自然である。

1. ドイツ:そもそも「ファイル(国民投票)」がロックされている

ドイツには「基本法(Grundgesetz)」という強力な成文憲法が存在する。ナチスが国民投票を悪用して独裁を正当化した歴史的教訓から、連邦レベルでの直接民主制(国民投票)に対して極めて慎重な設計がなされている。

  • エクセルでの挙動: 「アクセスがありません」
  • 仕組み: イギリスのような「EU離脱を問う国民投票」を連邦レベルで実施することは、現行の基本法の枠組みでは制度上ほとんど想定されていない。離脱のような重大な方向転換を行うには、連邦議会と連邦参議院の両方で2/3以上の賛成を得て、基本法そのものを書き換える必要が生じると解される。
  • 結果: ポピュリズムの波が来ても、システム側でそもそも「その種類の投票ボタン」が表示されにくい設計になっている。

2. イタリア:特定のセルは「編集不可(Read Only)」

イタリア憲法(第75条)は国民投票を認めているが、明確なファイアウォール(禁止事項)が設定されている。それは「国際条約に関しては、国民投票の対象にしてはならない」というルールである。

  • エクセルでの挙動: 「このセルは保護されており、変更できません」
  • 仕組み: EUへの加盟は国際条約に基づいている。したがって、国民がどれだけ不満を持っても、直接投票で「条約破棄(EU離脱)」を決めることは憲法上の対象外となる。
  • 結果: 「EU離脱」という入力自体が、システムエラーとして弾かれる構造になっている。

3. フランス:OSに「EU」が組み込まれている

フランスも国民投票自体は可能(第11条)だが、憲法(第88条-1)には「共和国は欧州連合に参加する」と、OSの基本設定としてEU加盟が明記されている。

  • エクセルでの挙動: 「システムファイルのため削除するには管理者パスワード(改憲)が必要です」
  • 仕組み: 離脱するには、まず憲法を改正して「EUに参加する」という記述を削除しなければならない。そのためには、両院合同会議で3/5以上の賛成が必要か、あるいは大統領主導の特別な手続きが前提となる。
  • 結果: イギリスのように法的拘束力のない投票結果(51.9%)だけで、憲法上の規定を事実上覆して離脱通告を行うことは、憲法評議会(最高裁)による厳格な審査の対象になったと考えられる。

こうして比較すると、Brexitという事象がいかに「イギリス固有の脆弱性(バグ)」を突いたものだったかが分かる。

  • 他の欧州諸国: 「国民投票の禁止」「条約への投票禁止」「改憲要件(2/3や3/5)」といった多重のセキュリティ(Hard Constraints)がかかっている。
  • イギリス: 議会主権(不文憲法)のため、過半数さえ取れれば、普通の法律を変えるのと同じ手軽さで、国の根幹システム(EU加盟)を削除し得る構造になっていた。

つまり、「他国なら憲法が阻むか?」という問いへの答えは、「Yes にかなり近い。少なくとも多くの国では、システムが警告を出してプロセスを著しく通りにくくする設計になっている」と整理するのが妥当である。

キャメロン首相は、誰もが「管理者権限」でシステム根幹にアクセスできるこの脆弱な環境下で、国民投票という強力なセル直書きを可能にしてしまった。プロテクトのかかっていないエクセルファイルで、不特定多数のユーザーにキーを押させる。それが制度的な観点での問題の本質である。

結論:結果セルだけを上書きする国民投票は、制度的に危うい

具体的な前提や制度案が固まっていない段階で、国家の進路だけを国民投票で決める行為は、巨大なエクセルモデルの最終アウトプットセルを、計算式を理解しないまま手入力で上書きする作業にきわめて近い。瞬間的には「決断した」ように見えても、モデル全体の構造はその瞬間に破綻を始める。

政策ロジックは因果の順序を失い、歪みが生まれる。

  • 複雑な制度モデルの前提が崩れ、整合性が維持できなくなる
  • 結論に合わせて理由を後付けするGoal Seekingが常態化する
  • 事後合理化が操作的説明(Manipulation)に近接する
  • 有権者がそれぞれ異なる未来像を抱いたまま同じ結論を支持し、投票後に深い対立が生じる

要するに、内容が未確定の段階で方向性だけを0か1で決める国民投票は、民主主義の健全な更新ではなく、制度と民意を同時に不安定化させる危険なショートカットである。モデルの計算式を壊さずに最終セルだけを手入力することはできないのと同様に、国家の中長期制度も、結論先行のまま整合性を保つことは不可能である。こうした構造的理由から、定義なき国民投票は制度設計上のバグであると言わざるを得ない。という、思考実験でした。

【この論考の留意点】 本稿の主張は「専門家が正しく、有権者が間違っている」というテクノクラート的立場ではなく、「決定の順序が重要だ」という手続き論である。専門家モデルも誤りうるが、結論を先に決めてから理由を後付けするプロセスは、正しい答えではなく都合の良い説明を生みやすい。エクセルのメタファーが示すのは、計算式より先に結果セルを手入力すると因果の順序が逆転し、整合性が失われるという構造的問題だ。その上で、この手続き論にもいくつかの死角が存在する。

第一に、「すべての国民投票がバグである」と一般化するリスクがある。ここで扱っているのは、ブレグジットのように中身が決まらないまま方向性だけを問う諮問型であり、スイスやアイルランドのように要件定義済みの条文に対して最終判断を下す承認型まで射程に入れているわけではない。後者は、エクセルで言えば計算式がすでに組まれた状態で「この結果を採用するか」を確認するプロセスであり、本稿が扱うようなZ100セルだけを上書きする行為とは異なる。

第二に、「壊れたモデル」を誰がどのように直すのかという問いが残る。本稿は既存モデルの手続き的整合性を基準に議論しているが、有権者がZ100セルを手入力で上書きした背景には、「そもそもこの計算式は自分たちの生活を改善しない」と感じた不信がある。地域格差や停滞が続く中で、一部の層だけが恩恵を受けているように見えれば、モデルそのものが自分たちを搾取する構造に見えても不思議ではない。いわば「納得できない計算式の強制終了」としての平手打ちであり、民主主義の非常停止ボタンとして発動した側面がある。

第三に、代議制民主主義もまたバンドリングの構造を持っている点だ。通常の選挙でも、外交・税制・社会保障などを一つの政党パッケージに押し込み、有権者はどこかを妥協して票を投じる。これはエクセルモデルの大雑把な上書きに近い現象であり、国民投票だけが特別にこの問題を抱えているわけではない。

第四に、エクセルメタファー自体が決定論的前提に立っている。「正しい計算式」の存在を暗に仮定しているが、政治経済システムには真の意味での不確実性が存在し、専門家モデルもまた大きく予測を外す。Brexit後の経済予測の多くが実態と乖離したことは、その証左である。社会は非線形であり、どの選択が「客観的に正しい」かは事前には決定不能である。したがって、本稿の議論は「定義なき国民投票」という特殊条件への手続き的批判として有効である一方、民主主義一般の構造そのものをどう捉えるかによって評価が分かれる余地が残る。現実問題としては、どこまでをバグと呼び、どこからを民主主義の自己修正機能と見るかは、読者自身の価値観に委ねられている。

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