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担保は本当にそこにあるのか──MFS破綻が問いかけるもの

2026年2月25日、ロンドンの不動産担保融資会社Market Financial Solutions(MFS)が破綻した。翌日からバークレイズが5%安、米ジェフリーズは一時10%安。「英住宅ローン会社が破綻」という見出しだけ見ると住宅市場の問題に見えるが、核心はそこではない。地味だけれど根深い──「担保」という仕組みそのものが壊れた、という事案だ。 何が起きたのか MFSはメイフェアに拠点を置き、不動産を担保にしたつなぎ融資や賃貸投資向けローンを専門にしていた。融資残高は約24億ポンド。資金の出し手にはバークレイズ、アポロ傘下のAtlas SP、サンタンデール、ジェフリーズ、ウェルズ・ファーゴが並ぶ。 関連会社が裁判所に持ち込んだ申し立てで指摘されたのが「二重担保(double pledging)」──同じ不動産を複数の貸し手に別々に担保として差し入れていた疑いだ。判事は不正の疑惑を「非常に深刻」と表現し、即座に管財手続きを認めた。債権者側の試算では、12億ポンドの債務に対して担保不足額は最大9.3億ポンド。80%以上が宙に浮いている可能性がある。 株が売られた理由 バークレイズのエクスポージャーは約6億ポンド、アポロ約4億ポンド、ジェフリーズ約1億ポンド。いずれも自己資本で吸収可能な規模に見える。ではなぜここまで売られたのか。 理由は「損失額」よりも「不確実性」にある。担保が二重に差し入れられていたなら、誰が第一順位の権利者かわからない。回収率は法的整理の帰趨次第で大幅に変わる。投資家は計算できないリスクに直面すると、最悪を前提に動く。 そしてもうひとつ。市場が恐れているのは「これだけで済むのか」という問いだ。 6カ月で3件目 時計を半年巻き戻す。2025年9月、米サブプライム自動車ローンのTricolorが破綻。同じローン債権を複数の銀行に担保として差し入れていた。ほぼ同時期に自動車部品のFirst Brandsも破綻。サプライチェーン・ファイナンスの枠組みで売掛債権を二重に担保にしていた疑いがあり、報告上のレバレッジ5倍に対し実質20倍近かったとの指摘もある。 そして今度はMFS。業種も国も違うが、構造は同じだ。担保資産を一意に管理する仕組みの不在を突いて、同じ資産を複数の貸し手に差し入れる。ちなみにジェフリーズはFi...

マンチェスターの小さな選挙区で起きたこと──「負け方」が問題だという話

2026年2月26日、マンチェスター南東部のガートン&デントン選挙区で下院の補欠選挙が行われた。人口8万人弱の都市型選挙区。普段なら全国ニュースのトップを飾るような場所ではない。 ところが、結果は英政治の地殻変動を想起させた。 緑の党のハナ・スペンサー候補が14,980票(得票率40.7%)で当選。2位はリフォームUKの10,578票(28.7%)。与党・労働党は9,364票(25.4%)で3位に沈んだ。保守党と自由民主党はいずれも得票率2%未満。事実上、消えた。 この選挙区は90年近く労働党が握ってきた鉄板の議席だ。2024年の総選挙では得票率50.8%、13,000票以上の大差で勝っている。それがわずか1年半で25ポイント以上も支持を失った。何が起きたのか。 三つ巴の背景 前職のグウィン議員は不適切発言で労働党からの処分(WhatsApp上の攻撃的メッセージ等を理由に停職・無所属化)を受けた後、健康上の理由で辞職した。後任選びでは、マンチェスター市長のアンディ・バーナム氏が国政復帰を目指したが、労働党の全国執行委員会(NEC)が立候補を却下。「党本部が地方の人気者を潰した」という反発が広がった。 バーナム氏が立っていれば勝てたのか。正直わからない。ただYouGovの2月調査では、2024年労働党投票者のうち同氏を好意的に見る人は55%で、労働党の主要政治家で唯一、過半数の支持を得ていた。少なくとも候補選定の経緯が「わかりやすい怒りの対象」になり、逆風を増幅したのは確かだろう。 結果として選挙は三つ巴になった。注目すべきは、三者がそれぞれ別方向から票を集めたことだ。緑の党は「スターマー政権の中道路線では不十分」という左派の不満を吸収し、リフォームUKは移民問題を軸に従来の労働党層にも食い込んだ。労働党は左右の両方から同時に削られた。 「負けたこと」ではなく「負け方」 補欠選挙で与党が負けること自体は珍しくない。有権者が抗議票を投じるのはよくある話だ。問題は、どう負けたかにある。 保守党に負けたなら左右の対立として整理できる。リフォームUKだけなら移民不満で説明がつく。しかし同じ左派圏の緑の党に大差で負け、リフォームUKにも上を行かれたとなると、話はもっと構造的になる。労働党の支持基盤そのものが左右に分裂し始めている、とい...

若者が余ってるのに、人口減少が問題になる?中国と日本のちょっと違う事情

中国について、二つの話がほぼ同時に聞こえてくる。「若者の失業率が高い」という話と、「少子高齢化で人口が減っている」という話だ。 ちょっと待ってほしい。若者が余っているのに、人口減少が問題になる? 人が足りなくなるなら、いずれ失業は解消されるのではないか。この二つの話は矛盾しているように聞こえる。 矛盾していない。むしろ同時に成立している。そしてこの「同時成立」が、いまの中国経済の厄介なところだ。 ついでに言えば、海の向こうの日本は正反対の風景を見せている。人手が足りない。仕事はある。ならば日本のほうが「マシ」なのか。その判断も、そう単純ではない。 数字で見る、逆の風景 まず事実関係を押さえておこう。中国の16〜24歳の失業率(学生除外ベース)は、2025年8月に18.9%まで上がった。史上最多の1,222万人が大学を卒業し、労働市場に流れ込んだ直後の数字だ。前年より43万人多い。その後やや改善し、12月には16.5%に下がったが、依然として高い水準にある。25〜29歳の失業率も7%前後で推移しており、卒業後数年経っても状況が大きく改善しないことを示唆している。 日本はどうか。失業率は2.5〜2.6%前後で安定し、有効求人倍率は1.19倍(2025年12月)。求職者100人に対して求人が119ある計算だ。仕事を「見つけられない」中国の若者と、働き手を「見つけられない」日本の企業。風景がまるで逆に見える。 その一方で、中国の人口は2022年から減少に転じている。2025年の出生数は792万人。前年から17%の急減で、1949年の建国以降で最低の出生率を記録した。合計特殊出生率は推計で1.0前後。日本(1.22)より低い。2025年だけで人口は339万人減った。 若者が就職できない国で、同時に人口が減っている。この不思議な組み合わせは、なぜ起きるのか。 若者はなぜ「余る」のか 中国経済全体の失業率は5.1%で、表面上はそこまで悪くない。問題は、若者に失業が偏っていることだ。 理由の一つは、雇用を生み出してきた民間セクターの弱さだ。不動産市場の調整が長引いている。不動産投資は2024年に前年比10.6%減、新規着工は23%減。いずれも統計開始以来の最大級の落ち込みだった。地方政府の土地売却収入も2021年のピーク時から大きく減少...

アイスランドはEUに入るのか

2026年2月25日、アイスランドのフロスタドッティル首相がワルシャワで、EU加盟交渉を再開するかどうかの国民投票を「今後数か月以内に」行うと表明した。問われるのは「加盟するかどうか」ではない。「交渉を再開するかどうか」だ。見積もりを取り直すかどうか、という段階にすぎない。 だが、見積もりの意味が以前とは変わっている。2000年代にEUに接近したとき、EUは「成長クラブ」だった。単一市場に入れば経済が伸びるという期待が求心力の中心にあった。いまアイスランドが再接近しているEUは、むしろ「保険の共同体」に近い。通貨の安定、金融のセーフティネット、安全保障、ルール形成への参加権。どれも平時にはなくても回るが、危機のときに効く。アイスランドの迷いは、保険料――すなわち主権の一部移転――を払うかどうかの選択として読んだ方がわかりやすい。 なぜ今なのか――保険の価値が急に上がった アイスランドとEUの縁は意外に長い。2008年の金融危機の翌年に加盟申請し、2012年末までに全33分野のうち11分野を暫定クローズしていた。だが政権交代で交渉は凍結され、2015年には「候補国扱いをしないでほしい」とEU側に要請。事実上、保険の検討をやめた形だ。 それから10年以上、なぜまた動き出したか。変わったのは地政学だ。ウクライナ戦争の長期化、フィンランドとスウェーデンのNATO加盟。そこにアメリカの動きが重なる。トランプ政権はグリーンランド取得を公然と主張し、軍事力の行使すら排除していない。2026年1月には次期駐アイスランド大使に指名されたビリー・ロング元下院議員が「アイスランドは52番目の州」と発言し、数千人規模の大使拒否署名が集まった。公式な併合計画ではない。だが隣のグリーンランドに対する強硬姿勢が続く文脈で、冗談の受け止め方は変わる。人口40万の小国にとって、保険の再検討を迫る具体的な圧力だ。 保険に入ると何が増えるか アイスランドは1994年からEEA(欧州経済領域)に参加し、2001年にシェンゲン協定を全面実施している。人の移動は自由、EU規制の大部分を国内法に取り込んでおり、日常の見た目は「ほぼEU」だ。では正式に加盟すると何が増えるか。 まず、ルール形成の席。EEA参加国はEUの規制を受け入れるが、欧州議会や理事会での投票権がない。ブリュッセルで...

スコットランドとウェールズの春、連合王国エンドは回避できますか?~5月の議会選挙で国が揺れるらしい~

2026年5月7日、イギリスでは二つの議会選挙が同日に行われる。スコットランド議会(ホリールード)とウェールズ議会(セネッド)。いずれも地方選挙ではなく、権限委譲された国家議会の総選挙だ。どちらも、結果次第では歴史的な転換点になり得る。なぜか。北アイルランドでは2024年総選挙でシン・フェイン党がすでに最大議席を獲得している。スコットランドとウェールズの最新の投票意向調査では、それぞれSNPとプライド・カムリが首位に立っている。つまり、選挙結果と世論調査を合わせて眺めると、イングランドを除くすべての構成国で、分離独立やアイルランド統一を掲げる政党が最大勢力になるという構図が浮かび上がる。 とはいえ、「イギリスが明日にも4つに割れる」という話ではない。そこまで単純ではないし、そこまで差し迫ってもいない。ただ、数字を追っていくと、連合王国というシステムに対する信任が揺らいでいることが見えてくる。しかも厄介なことに、よく解決策として語られる「EU単一市場への復帰」が、この遠心力を収めるどころか、場合によっては加速させるメカニズムを内包している。本稿では、最新の世論調査データと貿易統計を手がかりに、何が起きているのか、そしてなぜ解法が存在しないのかを整理してみたい。 スコットランド――政党支持と独立支持のズレ スコットランド議会の定数は129。過半数は65議席だ。なぜこの数字が重要かというと、SNPは「過半数を取れば、第2回独立住民投票のマンデート(民意による委任)を主張する」と明言しているからだ。 では、今はどうなっているのか。2021年の前回選挙でSNPは64議席を取った。あと1議席足りない。そこで緑の党(8議席)と「ビュートハウス合意」と呼ばれる連立協定を結び、合計72議席の独立支持多数派で政権を運営してきた。ところが2024年4月、気候変動目標の撤回をめぐって合意は決裂。ユーサフ首相(当時)は辞任に追い込まれ、後任のスウィニー首相が就任した。合意決裂時点ではSNPは63議席の少数与党だったが、その後の離党などを経て、現在の議会内勢力はSNP 60(2026年2月時点)。法案を通すたびに野党の協力が必要で、独立住民投票を推進する力はない。 5月の選挙で何が変わり得るか。electionpolling.co.ukのモデル推計ではSNP単独で59議席前...

「5秒で決めても、30分考えてから決めても、86%の結果はおなじ。」は、どこから来たのか

日本語のSNSで流れてきた。「5秒で決めても、30分考えてから決めても、86%の結果はおなじ。(ファーストチェス理論)」。何度もシェアされ、ビジネス書で繰り返し引用され、自己啓発コラムの定番ネタになっている。 でも、これは本当に「理論」なのか。誰が、いつ、どんな実験で「86%」を出したのか。チェスに詳しいわけでもない自分が気になって調べて考えてみた。 出典が、ない 英語で "First Chess Theory" "Fast Chess Theory" と検索しても、学術論文にもチェス研究のデータベースにも該当する理論は見つからない。"5 seconds, 30 minutes, 86%" で探しても同じだ。 日本語圏ではどうか。「ファーストチェス理論」を引用している記事は大量にある。しかし、論文名、著者名、実験条件、サンプルサイズを提示しているものが見当たらない。ゲーム作家の米光一成氏はQJWebで「出典が示されず、都市伝説のように伝播している」と指摘した。元海上自衛隊の数学教官・佐々木淳氏も「サンプルサイズがわからない時点で怪しさ満載」とばっさり切っている。 もちろん、古い雑誌記事や講演録など、まだ掘り起こされていない原典が存在する可能性はゼロではない。ただ、少なくとも現時点で、この「86%」の一次資料を特定できた人はいないようだ。 もっともらしさの構造 では、なぜ広まったのか。 背景の一部には本物の研究があるのかもしれない。心理学者デ・フロートは1940年代からチェスプレイヤーの思考を研究し、強いプレイヤーが盤面を見た瞬間に有望な候補手を絞り込めることを示した。ノーベル経済学賞受賞者のサイモンはこの研究を発展させ、熟達者が膨大な盤面パターンを記憶しており――よく「数万単位」と紹介されるが、この数字自体も推定の幅がある――素早く局面を把握できることを明らかにした。 こうした知見は確かに存在する。しかし「熟達者は最初の数秒で良い候補手に到達しやすい」と「5秒でも30分でも結果は同じ」のあいだには、大きな飛躍がある。 おそらくその飛躍を埋めたのが「86%」という数字だ。「だいたい同じ」と言われるより「86%同じ」と言われたほうが、どこかの研究室で精密に測定されたような...

ウクライナ「EU加盟ファストトラック」──実際に動いているのか

ロシアの全面侵攻から4年が経った。ゼレンスキー大統領は繰り返し「EUへのファストトラック加盟」を求め、2027年という年限まで口にしている。 では、これは実現するのか。そもそも「ファストトラック」とは何なのか。制度、安全保障、カネ、政治の4層で見ると、この言葉の中身がだいぶ変わってくる。 どこまで「速い」のか 事実から押さえよう。ウクライナの加盟申請は2022年2月28日、侵攻4日後だ。通常、EU加盟は候補国認定から正式加盟まで長期にわたり、10年以上かかることも珍しくない。クロアチアがそうだった。ところがウクライナは2022年6月に候補国認定、2024年6月に加盟交渉の正式開始と、前例のない速さで進んでいる。政治決定のスピードでは、すでにファストトラックは走っている。 問題はここからだ。フル加盟には交渉章ごとの合意、全27カ国の全会一致、各国議会の批准が残る。政治的意志だけでは圧縮できない工程だ。メルツ独首相は「2027年1月の加盟はあり得ない」と明言し、EUのカヤ・カラス上級代表も「加盟日を約束する用意がない」と述べている。 ではゼレンスキーは不可能なことを言い続けているだけなのか。そう単純でもない。 「先に入って、あとから基準を満たす」 2025年後半から2026年初頭にかけて「リバース・エンラージメント」という構想が議論の俎上に載った。通常の加盟は全基準を満たしてから入る。逆に、先に「加盟」の地位を与え、補助金や議決権は達成度に応じて段階的に解放するという発想だ。 国際危機グループの分析によれば、この構想の背景には和平交渉がある。停戦で苦しい妥協を迫られるとき、「EU加盟」のシンボルがあれば国内的に受け入れやすくなるとの見方だ。EUにとっても交渉のレバレッジになりうると分析されている。 ただしEU条約には、議決権や補助金だけを段階的に解放するような「段階的加盟」の制度は確立していない。EEA/EFTAや関税同盟など準加盟的な枠組みは存在するが、「先に正式加盟の地位を与え、中身は後から」という設計は前例がない。新枠組みを1年未満で27カ国が合意し法制化できるだろうか。ハンガリーのオルバン首相はウクライナの早期加盟に対し明確に反対の姿勢を示している。全会一致の手続きで、1カ国の拒否権で止まる。 さらに、仮にこの制度が実現...

自身の支持層を課税したトランプ関税の一年

「外国に払わせる」。トランプ政権が関税政策を本格化させたとき、繰り返されたフレーズだ。2025年を通じて関税は段階的に拡大され、実効関税率は一時16〜17%と1936年以来の水準に達した。あれから1年が経ち、データが出揃った。 結論を先に書く。負担のほとんどを引き受けたのは、アメリカの消費者と企業だった。しかもその負担は、所得が低い世帯ほど重い。つまり、トランプを支持した有権者層にいちばん効いている。 誰の財布から出たのか キール世界経済研究所が2026年1月に出した分析では、関税負担の約96%を米国側(消費者と輸入企業)が吸収していた。外国の輸出業者が引き受けたのは約4%。ニューヨーク連銀も、2018〜19年の第一次関税戦争で「ほぼ全額が国内に帰着した」という結果を出している。 ハーバード大学のカヴァッロらは、大手小売店の約35万品目の日次価格データで転嫁の実態を追った。2025年9月時点のCPI前年比(季節調整前)は約3%で、関税による押し上げは約0.76ポイント。関税がなければ2.2%あたり、FRBの目標に近い水準だった。3%のうち4分の1以上が関税から来ていたことになる。 影響は関税品目だけにとどまらない。輸入品が上がれば、競合する国内品も上げられる。カヴァッロらのデータでは、輸入品の価格上昇が約6.2%、国内品も約3.6%。関税は棚全体の値札を動かす。 所得が低いほど重い この値上がりが全員に同じように効くなら、まだ話は単純だ。だが、そうはなっていない。 イェール大学バジェットラボ(TBL)の推計によれば、関税負担を税引き後所得に対する比率で見ると、所得下位10%の世帯で1.1〜1.9%、上位10%で0.4〜0.6%。約3倍の差がある。低所得世帯ほど所得に占める消費の割合が高く、しかもその消費が食料品・衣料品・家電のような貿易財に偏る。高所得世帯は所得の多くを貯蓄や投資に回せるが、低所得世帯にはその余裕がない。収入のほぼ全額が生活費に消えるから、物価の上昇がそのまま生活水準の低下になる。関税は所得に比例しない。買い物に比例する。だから低い方に重くなる。 金額だけ見ると逆で、上位10%の年間負担(約1,800〜3,000ドル)は下位10%(約400〜700ドル)より大きい。ただ、月収20万円の家庭の月3,000円と、月収2...

最高裁が関税を潰した。で、大統領は言うことを聞くのか?

2026年2月20日金曜日。米連邦最高裁が6対3でトランプ大統領の関税を違法と判断した。国際緊急経済権限法(IEEPA)は関税を課す権限を大統領に与えていない——というのがその理屈だ。ロバーツ首席判事は多数意見の中で、IEEPAの第1702条(a)(1)(B)にある「規制する(regulate)」と「輸入(importation)」という二語だけを根拠に、大統領がどの国からの、どの商品にも、どの税率を、どれだけの期間でも課せる独立した関税権限を持つと読むことはできない、と判示した。「その二語はそれほどの重みを支えられない」と。さらにゴーサッチ判事とバレット判事が加わったパートでは、いわゆる「重大問題法理」にも触れた。議会が重大な経済的・政治的意義を持つ権限を委任するなら、それは明確な文言で行わなければならない、と。関税はまさに「巨大な権限」であり、曖昧な条文から読み取れるものではない。 では、これで関税は消えたのか。話はそう単純ではない。 判決から数時間後、トランプ大統領は記者会見を開き、判決を「恥だ」と呼んだ。しかし彼がとった行動は、判決を無視して税関に徴収を続けさせることではなかった。代わりに、別の法律——1974年通商法第122条——に基づいて、広範な輸入品に10%のグローバル関税を発令した(鉄鋼・アルミ・自動車など既存の第232条関税対象品や一部品目は適用除外)。発効日は2月24日。翌2月21日にはこれを15%に引き上げると表明した。違法とされた根拠法を別の法律にすげ替え、週明けから実質的に近い水準の関税を復活させた形だ。 ここで少し立ち止まりたい。これは最高裁判決の「無視」なのだろうか。 「無視」と「迂回」のあいだ 少なくとも今の段階では、「無視」という言葉は正確ではない。形式上、政権はIEEPA関税を終了させる大統領令に署名し、最高裁の決定には従った。ただし税関実務(システムコードの停止等)の都合上、CBPによるIEEPA関税の徴収停止は2月24日からとなり、週末も徴収が続いていたと報じられている。つまり「同じ法律で同じことを続ける」という露骨な不服従はやっていない。しかし同時に、まったく別の法律を引っ張り出して、ほぼ同じ結果を再現してみせた。 これは法治の崩壊なのか。それとも法治の範囲内での高度な戦略なのか。どちらとも言い切れな...

英政府「企業に在宅勤務を強制へ」について

「政府が企業に在宅勤務を強制へ」——こういう見出しを見ると、経営者目線なら「またコストが増える」と身構えるだろうし、通勤に疲れた会社員なら「やっと権利が認められた」と感じるかもしれない。英国でいうとReform UKのような政党は「会社に戻れ」と声を上げる。どの直感にもそれなりの根拠がある。 英国では法律がもう成立している Employment Rights Bill(雇用権利法案)は、2025年12月18日に国王の裁可を受け、Employment Rights Act 2025として正式に成立した。Acasのサイトにも複数の大手法律事務所のレビューにも、この日付は一致して記載されている。「法案」ではなく「法律」だ。 ただし、成立したからといって翌日から全部が動くわけではない。英国の労働法改正は、一次立法が通ったあと、二次立法で具体的な規則を段階的に定めていく。柔軟な働き方に関する部分は2027年の施行予定で、いま(2026年2月〜4月)は運用ルールの公開協議の最中だ。 「在宅の権利」ではなく「拒否のコスト」が変わる ここが最も誤解されやすい核心だ。新法は従業員に「在宅勤務をする権利」を直接与えるものではない。すでに2024年4月から入社初日に柔軟な働き方を申請できる。問題は「拒否」の扱いだ。 従来、企業は8つの法定事業理由のどれかを挙げれば拒否できた。拒否前の協議義務は2024年4月の改正で既に導入されている。2027年施行予定の新たな枠組みでは、さらに踏み込んで、拒否が「合理的だったか」が実体的に審査される方向だ。不合理な拒否は雇用審判所で争点化し得る。補償上限(最大8週間分の賃金相当、週給上限でキャップ)などの運用設計は二次立法で定まる予定で、いまは公開協議で詰めている段階にある。 つまり設計思想は「在宅を配る」ことではなく「拒否の期待コストを上げる」ことにある。境界線上のケース——在宅でもオフィスでもどちらでも回りそうな業務——で、企業が「争うより受ける」に傾く場面が増える。見出しの「強制」は法技術的にはズレているが、企業行動の予測としてはそこまで外れてもいない。 データは何を言っているか 「柔軟な働き方で労働参加率が上がる」という主張と「全員出社で生産性が回復する」という主張。どちらがデータに支えられているか。 現時...

フランスは若い国か、古い国か

フランスと聞いて、何を思い浮かべるだろうか。ルイ14世の絶対王政、1789年の革命、ナポレオン。どれも数百年前の話だ。文化的にも政治的にも、フランスは「古い国」というイメージが強い。 だが、ひとつ問いを立ててみたい。今のフランスという国家を動かしている「ルール」は、いつできたものだろうか。 答えは1958年。たかだか68年前のことだ。アメリカの現行憲法が1788年に批准され翌1789年に施行、修正を重ねながらも236年の連続性を持つのに比べると、フランスの現在の統治体制はずいぶん新しい。イギリスにしても、17世紀後半から漸進的に議会制度を形成してきた蓄積がある。1789年の革命以降、王政、帝政、共和政を何度も行き来し、そのたびに憲法を書き換えてきたフランスとは、制度の「年齢」がまるで違う。現行の体制――「第五共和制」――は、フランスにとって5回目の共和政であり、それ以前の帝政や王政復古も含めれば、十数回にわたる体制変更の末に到達した地点にすぎない。 歴史と文化の古さと、統治機構の若さ。このギャップこそが、今のフランスを理解するうえでの出発点になる。 なぜ「第五」まで来てしまったのか 第五共和制の直前にあった第四共和制(1946〜1958年)は、議会に強大な権限を持たせた議院内閣制だった。比例代表制のもとで小党が乱立し、単独で過半数をとれる政党は存在しなかった。常に複数の政党が連立を組むのだが、その連立はきわめて脆い。 なぜ脆かったのか。制度の設計に問題があった。議会は簡単に内閣を倒せる一方で、内閣の側から議会を解散するハードルはきわめて高く設定されていた。各政党にとっては、連立から離脱して政府を倒すことの政治的コストが低い。むしろ「一度政府を倒して、次の連立交渉で自分たちの要求を通す」という戦略が合理的になってしまう構造だった。 結果はどうなったか。12年間で24の内閣が組閣された(Oxford Referenceのカウントでは25)。首相は16人。政権の平均寿命はおよそ6か月。閣僚危機の累計日数は375日に及んだとする推計もある。 これが何を意味するか。半年で交代する政府には、長期戦略を立てるインセンティブがない。痛みを伴う改革を打ち出しても、その成果を刈り取る前に政権が倒れてしまう。政策のタイムホライズンが極端に短期化し、...

優等生がバカを見る関税の世界——相互関税違憲判決

2026年2月20日、米連邦最高裁がひとつの判決を下した。IEEPA(国際緊急経済権限法)は大統領に関税を課す権限を与えていない——トランプ政権の関税の法的根拠が権限逸脱で違法とされた。6対3の多数意見だった。 このニュース単体なら、「関税が撤回された、よかった」で終わる話に見えるかもしれない。だが実際に起きたことは、もう少し複雑で、もう少し残酷だった。 何が起きたのか 判決が出た数時間後、トランプ大統領は別の法律——1974年通商法第122条——を持ち出して、全世界一律10%の関税を発表した(発効は2月24日)。翌日にはこれを法律上の上限である15%に引き上げると表明した。Penn Wharton Budget Modelの試算では、違法とされたIEEPA関税の累計徴収額は最大1,750億ドルにのぼり、輸入業者への還付が必要になる可能性がある。だが未来の関税が消えたわけではない。代わりの関税が、すでに動き始めている。 ここで注目すべきは、この第122条という法律の性質だ。最長150日間、最大15%の関税を課すことができるが、対象国に対して「無差別(non-discriminatory)かつ一律に適用する」ことが原則として求められている。一部の適用除外や既存合意の扱いは残るものの、国ごとに税率を変える個別ディールは従来よりはるかに難しくなった。 これが何を意味するか。ここ一年、各国が血を流しながら交渉してきた「国別の優遇税率」の価値が、大きく毀損されたのだ。 10%の優等生たち IEEPA関税の枠組みのもとで、英国は早い段階から米国と交渉を進め、10%のベースライン関税で合意していた。自動車や航空宇宙分野での追加的な免除も取りつけていた。オーストラリアも同じく10%。対米貿易で赤字を計上している立場を活かし、「最も低い関税率」というポジションを確保していた。 日本やEUは当初それぞれ24%、20%を課されていたが、2025年夏の交渉を経て15%に調整された。韓国も同じく15%。インドネシアやフィリピンは19%。そしてインドは50%から18%への大幅引き下げをようやく勝ち取ったところだった。 この数字の差は、交渉における「アメ」として機能していた。早く譲歩すれば低い税率をもらえる。粘れば高いまま。だからこそ各国は、自国の市場を開放...

短編小説「チャピれカス」

 2028年の東京。木曜の夜、通知が鳴った。  久しぶりの名前だった。タカシ。大学の研究室が同じだった男。最後に会ったのは去年の秋で、仲が悪いわけではないが、年に一、二回飲む程度の距離感になっていた。  「ちょっと相談したいことがあるんだけど、今度飲まない?」  返信欄に指を置いた瞬間、別の文が先に立ち上がった。  ——それ、まずチャピった?  打って、消した。打って、また消した。  十年前なら「いいよ、いつにする?」と即答していた。なのに今は、胸のどこかに小さな抵抗がある。懐かしさではない。計算だ。この一言は、軽い飲みの誘いなのか。それとも、AIで処理しきれなかった残り滓をこっちに持ってこようとしているのか。  そこまで考えて、自分がやっていることの滑稽さに気づいた。友人からの連絡を「処理コスト」で値踏みしている。いつからこうなったんだろう。  結局、AIに聞いた。自分でも笑えたが、聞いた。「久しぶりの友人から相談があると言われた。正直少し面倒に感じている。どう返事すべきか」と打ち込んだ。  返ってきたのは、きわめて合理的な回答だった。関係を維持するメリット、断った場合の社会的コスト、中間的な選択肢(オンラインで短時間だけ話す等)。箇条書きで、隙がなかった。  読み終えて、閉じた。  合理的な答えはもう手元にある。なのに、指が動かない。AIの箇条書きをそのまま判断に変換できない自分がいる。「まあ、タカシだしな」という、論理とは別の回路が邪魔をする。  15分後、こう返した。  「いいよ。来週の土曜、空いてる?」  送信した瞬間、少しだけ疲れた。たかが友人との飲みの約束に、なんでこんなに認知リソースを使っているのか。  2028年の東京で、この感覚は別に珍しくない。 壁打ちのコストがゼロになった世界  まず前提を整理しておく。  2020年代の後半に何が起きたかというと、「考えを整理するために誰かに話す」という行為のコストが、ほぼゼロになった。それだけのことだ。  AIチャットの性能が上がったこと自体は、別に劇的な話ではない。2024年頃からすでにそこそこ使えたし、2026年あたりからは「まあ、だいたいの悩みはこれでいいか」という空気が広がっていた。転職するかどうか、上司との関係をどう...

「人間は十代で満たされなかったものに一生執着する」について

SNSで繰り返し回ってくる言葉がある。「人間は十代で満たされなかったものに一生執着するらしいです」。出典ははっきりしない。でも拡散するたびに数千、数万のいいねがつく。たぶん、心当たりがあるからだ。 お金がなかった人が、十分に稼げるようになっても貯蓄をやめられない。友達が少なかった人が、交友関係が広がっても「自分は孤立している」と感じ続ける。学歴にコンプレックスがあった人が、実績を積んだあとも肩書きに過剰に反応する。そういう話は、誰の周囲にも一つくらいある。 この言説にはどのくらい妥当性があるのか。あるとしたら、何が起きているのか。少し考えてみたい。 脳は「差分」で世界を見ている 前提を一つ。人間の脳は絶対量ではなく差分で判断する。年収500万円が「多い」か「少ない」かは、基準がどこにあるかで決まる。300万円から上がった人には大きな改善だし、800万円から下がった人には損失だ。 行動経済学では、この基準を「参照点」と呼ぶ。Kőszegi and Rabin(2006)のモデルでは、参照点は「いま持っている量」ではなく「こうなるはずだという予測」に引っ張られるとされている。だから十代のあいだずっと「足りない」のが普通だった人は、「足りない状態」が期待の初期値になりうる。その初期値が更新されなければ、客観的に十分な量を手にしていても、脳は違った解釈をし続ける。 若い頃の経験は、本当に残るのか Malmendier and Nagel(2011)は、1960年から2007年の米国家計調査データを用い、人生の初期に株式市場の低迷を経験した世代が、その後何十年も株式投資を避ける傾向があることを示した。リスクを取りたがらず、参加率が低く、参加していても配分が小さい。若い頃の経験の印象はゆっくりとしか薄れないという結果だった。大恐慌を経験した世代が「Depression Babies」と呼ばれるのは、このメカニズムに由来する。 ここで正直に書いておくべきことがある。この分野のもう一つの代表的研究、Giuliano and Spilimbergo(2014)は、「不況期に育つと、成功を運に帰す信念が生涯残る」と報告していたが、2023年にコーディングエラーで撤回された。追試では一部の結果は再現されたが、他の指標は不明瞭だった。「若い頃の経験が残る」と...

トランプ関税は違法——最高裁が止めたもの、止められなかったもの

2026年2月20日、連邦最高裁は6対3で、トランプ大統領が国際緊急経済権限法(IEEPA)を根拠に課してきた包括関税を「違法」と断じた。ロバーツ長官の多数意見は明快だった。「IEEPAは大統領に関税を課す権限を与えていない」。知らせを受けた大統領は州知事との会談中に「disgrace」とだけ言い、退室した。 第二次トランプ政権が保守派最高裁から受けた最も重い敗北だと報じられている。だが立ち止まって考えてみる。何が本当に変わったのか。何が変わっていないのか。そしてなぜ、市場はこの「歴史的」判決に対して拍子抜けするほど冷静だったのか。 何が争点だったか 出発点は2025年4月の「解放記念日」だ。トランプ大統領は世界中の貿易相手国に一律10%以上、中国には最大145%の関税を課した。根拠はIEEPA——1977年制定の、国家緊急事態において大統領が外国との取引を「規制(regulate)」できるとする法律だ。政権はこの「規制」に関税賦課の権限が含まれると主張した。しかし条文に「tariff」や「duty」という語はどこにもない。 ロバーツ長官はこう退けた。「議会が関税賦課の権限を与えるとき、それは明示的に、慎重な制約とともに行う。ここではそのどちらもない」。条文にない巨大な権限を読み込むことはできない、と。 「身内」が反対した理由 トランプ任命のゴーサッチ、バレット両判事が政権に反対票を投じた。裏切りに見えるかもしれないが、保守法学の文脈では筋が通る。テキスト主義(条文に忠実に解釈する)と三権分立の厳格な維持——これが保守派の核心だ。憲法第1条は課税権を議会に付与している。行政府が「緊急事態」で事実上の課税権を得ることは、その構造を溶かす行為にあたる。 もうひとつ。政権の解釈を認めると、既存の通商法がすべて形骸化する。たとえば1974年通商法122条は上限15%・最大150日という制約つきで関税を認めているが、IEEPAにそうした制限はない。「IEEPAで何でもできる」なら、議会が設計した他の法律の意味がなくなる。多数意見がこの制度設計の崩壊を嫌ったことは判決文から明らかだ。 ただし6人の多数派は理論的に二つに分かれている。ケイガン判事はリベラル派3人の補足意見で「通常の法律解釈だけで十分。重大問題の法理を持ち出す必要はない」と書いた。「...

人間の方が、ハルシネーションは多くないか?

AIは嘘をつく。2025年だけで、AI生成の虚偽引用が争点となった裁判所の判断は数百件に上るとされ、その数は既知の事例全体の約9割を占めるという。架空の論文を堂々と「出典」として並べるモデルの振る舞いは、もはや笑い話にもならない。 では、こう聞かれたらどうだろう。「人間の方が、ハルシネーションは多くないか?」と。 挑発的に聞こえるかもしれない。しかし、この問いは案外まっとうな比較の入り口になる。大事なのは「どちらが悪い」と断じることではなく、それぞれの「嘘のつき方」の構造を理解することだ。そして、その理解が、AIを使う側の私たちにとって何を意味するかを考えることだ。 まず、数字で見てみる AI側のデータから確認しよう。Vectaraが公開しているハルシネーション・リーダーボードによれば、2025年時点のモデル(Google Gemini 2.0 Flashなど)は、文書要約タスクにおけるハルシネーション率を0.7〜1.5%まで下げている。サブ1%のモデルが4つ存在するという事実は、「AIは息を吐くように嘘をつく」という印象からすると、だいぶ様子が違う。 ただし、これは「目の前の文書を正確に要約せよ」という、いわば守備範囲の狭いタスクでの数字だ。オープンな事実質問になると話は変わる。OpenAIのo3シリーズは、PersonQAやSimpleQAといったベンチマークで33〜51%のハルシネーション率を記録している。推論を深めるほど、かえって嘘が増えるという逆説的な現象も報告されている。一般的な知識問題における平均ハルシネーション率は約9.2%、法律情報に限れば上位モデルでも6.4%に達する。つまり、AIのハルシネーション率は「何を聞くか」で桁が変わる。一つの数字で語れるものではない。 では人間はどうか。手作業でのデータ入力におけるエラー率は、検証なしの単純入力で約1〜4%というのが複数の研究で示されている数字だ。スプレッドシートの入力に関するある研究では、人間の正確性は約95%にとどまるという結果が出ている。臨床研究のデータ処理に関するシステマティック・レビュー(PMC, 2024年)では、手法によってエラー率が10,000フィールドあたり2件から2,784件まで幅があるという結果が出ている。1万件の入力で最大400件のエラー。自動化システムな...

イギリスの若者が考えるEUパスポートの価値

2026年2月、ITVとSavantaが発表した世論調査で、16〜24歳のイギリスの若者の83%が「もし国民投票があればEU再加盟に投票する」と答えた。残りの17%が「域外維持」。YouGovの別の調査では、全世代で見ても再加盟支持が63%、18〜25歳に絞ると86%に跳ね上がる。 2016年のEU離脱国民投票のとき、今の16〜24歳は何歳だったか。6歳から14歳だ。投票権は当然なかった。自分たちが選んだわけでもない結果の中で、就職し、キャリアの最初の一歩を踏み出している。 もちろん、世論調査は世論調査だ。仮想的な「もし投票があれば」という問いへの回答であって、明日にも政策が変わるという話ではない。2016年の国民投票前も、Remainがリードしていた時期があったことは忘れるべきではないし、「再加盟」の選択肢にユーロ導入がセットになると、支持率は大幅に下がるというデータもある。 それでも、83%という数字が映し出しているものは重い。これは「EU好き」という感情の話だけではなく、「自分たちの世代が構造的に機会を制限されている」という認識の話だ。では、この認識は客観的なデータで裏づけられるだろうか。 ただし、「若者にEUパスポートを渡す」はできない では「若者にだけEUパスポートを配れないか?」、気持ちとしてはわかる。だが制度的には不可能だ。なぜか。 EUパスポートとは、実質的にはEU加盟国の国籍に付随するEU市民権の表象にすぎない。EU非加盟国であるイギリス政府が、年齢で区切って自国民に「配る」類の権利ではない。これは法技術上の問題であって、政治的意思の問題ではない。たとえイギリス政府が本気で望んでも、EUの条約構造がそれを許さない。 ではどうするか。「EUパスポートそのもの」は無理でも、「実質的にそれに近い便益」を設計するルートは存在する。そして実際にいま、そのルートで政策交渉が動いている。 Youth Experience Scheme——交渉はどこまで来ているか 2025年5月のUK-EUサミットで、両者は「若者向け相互モビリティ制度(Youth Experience Scheme、通称YES)」の創設に合意した。18歳から30歳の若者が、相手の地域で就労・就学・ボランティア・旅行などを一定期間できるようにする、というビザ...

生保と国債と円を繋ぐ

2026年2月17日、日本公認会計士協会(JICPA)がひとつの公開草案を出した。生命保険会社が保有する「責任準備金対応債券」について、金利変動による時価下落を減損のトリガーにしない、という内容だ。 見出しだけ読むと、地味な会計テクニックの話に見える。だが、この変更の背景にある数字を並べると、景色が変わる。大手生保4社──日本生命、第一生命、明治安田生命、住友生命──が抱える国内債券の含み損は、2025年12月末時点で約13兆2000億円に達した。日本生命だけで5兆4500億円。わずか1年半前の2024年6月末には4社合計で約5兆7000億円だったから、倍以上に膨らんだ計算になる。2025年度の4〜12月期決算では、主要15社の基礎利益こそ前年同期比15%増の約3兆5000億円と堅調だったが、国内債券の含み損は約26兆6000億円と3月末から58%も増えている。生保業界全体の話に広げると、金額の桁がもう一段上がる。 日本生命の公社債は約30兆円。そのうち約27兆円が責任準備金対応債券に分類されている。保有債券のほぼ9割が今回の会計ルール変更の対象になるわけだ。 13兆円の含み損が、決算書の「痛み」として表面に出にくくなる。これは粉飾なのか、それとも合理的な修正なのか。そして、この地味な会計変更は、なぜ為替市場で「円高」という形で跳ね返ってくるのか。 順を追って解きほぐしてみたい。会計基準と健全性規制と国債市場と為替市場が、思いのほか深くつながっていることが見えてくる。そして、最近の為替市場で生保が「円高の主役」に転じつつある理由も、すっきりと説明がつく。 まず、何が変わるのか──「損を消す」のではなく「損の測り方を変える」 従来のルールでは、責任準備金対応債券の時価が簿価を大きく下回った場合──実務上は50%が目安とされていた──回復の見込みがなければ減損損失を計上する必要があった。金利が上がれば債券価格は下がる。それ自体は債券投資の基本だ。問題は、その値下がりが一定の閾値を超えたとき、決算書に「損失」として載ることにあった。満期まで持ち続けるつもりでも、だ。 今回の改正案は、この「時価トリガー」を外す。ではまったく損失を認識しなくなるのかというと、違う。代わりに「予想信用損失(ECL=Expected Cre...

物価もバブルも制御できない人類が、AIだけは制御できると思っている件

ひとつ、素朴な疑問から始めたい。 中央銀行は「物価の番人」として何十年もインフレと戦ってきたが、その予測はいまだに外れ続ける。 政府が「売るな」と叫んでも、市場は国債や通貨を売る。 金融規制当局はリーマン・ショックの反省から、バブルや連鎖破綻を防ぐために何千ページもの法令を積み上げた。それでもリスクは規制の隙間へ逃げ込み、金融システムの不安定さは形を変えて繰り返される。 物価も、市場も、金融危機も、いまだに御しきれていない。そんな人類が、なぜ「AIだけは完全に制御できる」と自信を持てるのだろうか。 この問いは、一見すると居酒屋の戯言に聞こえるかもしれない。 だが、この違和感は、単なる皮肉や悲観論ではない。 ここには、我々が「制御(コントロール)」という言葉を使うときに陥りがちな、認識のズレが横たわっている。 楽観論者と悲観論者がいつまでも噛み合わない原因はここにある。同じ「制御」という単語を使いながら、まったく違うレベルの話をごちゃ混ぜにしているのだ。「制御できる」と言う人は見通しが甘く、「制御できない」と言う人はすべてを諦めすぎている。どちらも「制御」の定義がぼやけたまま、別のゲームの話をしている。 「制御」にはレベルがある まず整理しておきたいのは、「制御」という単語がカバーする範囲がやたらに広いことだ。 大きく三段階に分けて考えると、だいぶ見通しがよくなる。 第一のレベルは 完全支配 。望む状態を設計し、外乱がきても狙い通りに維持する。失敗確率を限りなくゼロに近づける、という意味での制御だ。工場の温度管理や時計の機構にはこれが成り立つ。しかし、相手が「反応してくる」系──つまり経済、生態系、そして知能──に対しては、ほぼ不可能だと考えていい。 第二のレベルは 統計的な誘導 。結果を一つに決めることはできないが、平均や分布や頻度を動かすことはできる。インフレ率の「平均」をだいたい2%付近に保つとか、銀行の破綻確率を下げるとか。ただし副作用と時間差は残る。現実の政策や規制が狙っているのは、ほぼこのレベルだ。 第三のレベルは 被害限定(レジリエンス) 。暴走は「起こさない」のではなく、「起きても致命傷にしない」という発想。早期検知、隔離、冗長化、復旧の設計。複雑な系に対してもっとも現実...

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