日本国債の格下げはいつ来るのか
日本国債の空売りで大損した投資家が続出したことから、この取引は「ウィドウメーカー(未亡人製造機)」と呼ばれてきた。政府の借金が膨らんでも金利は上がらず、格下げがあっても市場は動かなかった。だから日本は特別だ──と。
だが、その「特別」の前提は今や昔、10年物国債利回りは2026年2月初旬に2.25%前後まで上昇し、27年ぶりの高水準を記録。高市早苗政権が打ち出す過去最大122兆円の予算案、国債の利払い費は年間31兆円超と歴史的な水準に膨らんでいる。
日本国債の格下げは本当に起こるのか。起こるとしたら何がトリガーになるのか。このエッセイは、「何がどう変われば格下げが近づくのか」、その判断材料を整理したい。
第1章 いま日本国債はどう見られているか
まず現在地を押さえたい。2026年2月時点の格付けは以下の通り。
S&Pが「A+」見通し安定的。ムーディーズが「A1」見通し安定的。フィッチが「A」見通し安定的。3社ともに「ネガティブ」な見通しは出していない。直近のフィッチのレビューは2026年1月19日で、「A」据え置き・見通し安定的が確認された。同社アジア太平洋ソブリン格付け部門のジェレミー・ズック氏は、選挙前後の拡張的な財政政策はすでに現在の財政予測に織り込まれているとコメントし、「財政拡大が我々の予測を大幅に上回るリスクはあるが、現時点では政府が赤字を管理可能な範囲に留めると想定している」と述べた。
ただし、この「安定的」は「安全」と同義ではない。歴史を振り返れば、日本はかつてAAAの最高格付けを持っていた。S&Pが最初の格下げに動いたのが2001年。そこから段階的に引き下げが繰り返され、2015年までにS&PはA+、ムーディーズはA1、フィッチはAという現在の水準に落ち着いた。もう5〜6ノッチ分の格下げ余地しか残っておらず、「投資適格」の下限(BBB-/Baa3)は以前ほど遠くない。
では、なぜ過去20年以上にわたる格下げの中で、日本国債市場は崩壊しなかったのか。
第2章 3つのバッファー──日本国債を支えてきた構造
格付け会社がソブリン格付けを決めるとき、見ているのは政府の借金だけではない。経済全体の「稼ぐ力」、対外資産・負債の構造、通貨の国際的地位、制度の安定性──こうした複合的な要素がスコアに反映される。日本の場合、財政指標が先進国で最悪であるにもかかわらず「A」ゾーンを維持している根拠は、主に3つのバッファーに集約できる。
バッファー①:世界有数の対外純資産
2024年末時点の日本の対外純資産は約533兆円。30年以上にわたり世界最大の債権国だったが、2024年にドイツ(約570兆円)に抜かれて2位に後退した。とはいえ、500兆円を超える純資産の厚みは依然として巨大だ。
ここで一つ注意を挟みたい。「対外純資産があるから政府はいざとなれば動員できる」という議論がしばしば聞かれるが、これは単純すぎる。対外純資産の中身を見れば、その多くは民間企業の直接投資(海外工場・買収先)、株式、再投資利益といった「流動性の低い資産」だ。みずほ銀行の唐鎌大輔氏が指摘する通り、「外国債券はすぐ売れるが、いったん買収した海外企業を売却するのはそう簡単ではない」。
つまり、対外純資産がもたらすのは「信用力」──この国は全体として裕福であるという格付け会社への安心材料──であって、短期的な「資金繰り(流動性)」を直接保証するものではない。この区別は重要だ。信用力と流動性を混同すると、「対外純資産があるから大丈夫」という思考停止に陥る。
バッファー②:年間30兆円超の経常黒字
対外純資産がストック(蓄積)なら、経常収支はフロー(稼ぎ)だ。暦年2024年の経常黒字は約29.3兆円で、統計が比較可能な1996年以降の最高を記録した。
ただし、その中身がかつてとは根本的に変わっている。モノの貿易収支は約3.9兆円の赤字。サービス収支は、デジタル関連の赤字が急拡大していることもあり、依然として赤字基調だ。経常黒字を一手に支えているのは第一次所得収支──海外投資から得られる利子・配当──で、暦年2024年はその黒字が約40兆円に達した。日本はもはや「モノを売って稼ぐ国」ではなく、「海外に置いたカネが稼いでくれる国」に変貌している。
この構造は国債の安定にとって強力なバッファーだ。毎年数十兆円規模の外貨収入が国内に環流し、それが金融機関の預金や保険料となり、巡り巡って国債の購入原資になるという資金循環が維持されている。
だが、ここにも死角がある。第一次所得収支の黒字が、円安によって「嵩上げ」されている側面は無視できない。2024年の平均為替レートは1ドル=約151円と歴史的な円安水準だった。海外で得たドル建ての利子・配当を円に換算すれば、円安であるほど数字は膨らむ。仮に円高に振れれば、この黒字は円ベースで縮む。
さらに構造的な問題がある。日本のデジタル貿易赤字は2024年に約6.65兆円と過去最高を更新し、この10年間で3倍以上に膨張した。米国のテック企業(Amazon、Microsoft、Googleなど)へのクラウド利用料、広告費、ライセンス料が主因だ。経済産業省は2030年にはこの赤字が10兆円に達すると推計しており、これは2024年の原油輸入額(約11兆円)に匹敵する。インバウンド観光の旅行収支黒字(2024年は約5.9兆円で過去最高)がデジタル赤字を部分的に相殺してはいるが、テック依存が構造的に深まる中で、この均衡がいつまで保たれるかは不透明だ。
バッファー③:国債保有の「内向き」構造
日銀の資金循環統計(2024年12月末時点)によれば、JGB・T-Bill合算での保有者内訳は、日本銀行が561.3兆円(46.3%)、国内投資家(銀行・保険・年金等)が507.3兆円(41.8%)。海外投資家の保有比率は約11.9%にとどまる。国債の約88%が「身内」に保有されている。
この構造が安定要因であることは間違いない。ギリシャ危機のように海外投資家が一斉に売って金利が暴騰するシナリオは、日本では構造的に起こりにくい。海外勢のシェアが12%弱にすぎない以上、売り圧力には物理的な上限がある。
しかし、ここには見落とされがちな論点がある。この「身内」保有の最大の柱は日銀であり、その比率は46%──半分近くが中央銀行という異常な状態だ。日銀がバランスシート縮小を進める中で、この46%は少しずつ減っていく。問題は「誰が買うか」ではなく、「いくらなら買うか」だ。つまり市場が新たな均衡利回りを発見するプロセスこそが、格下げリスクを考えるうえでの本質にある。
第3章 何が変わりつつあるのか/h3>
圧力①:「金利のある世界」の復帰と利払い費
最大の構造変化は金利環境だ。2016年から2024年にかけて、日銀の超低金利政策下で10年債利回りの平均はわずか約0.33%だった。それが2026年2月には2.25%前後まで上昇している。
「金利が上がったから利払い費が即座に爆発する」という短絡的な議論もあるが、実態はもう少し複雑だ。日本国債の平均残存年限はおおむね8〜10年であり、既発債の金利は発行時の低い水準で固定されている。したがって、金利上昇の利払い費への影響は「徐々に」効いてくる。借り換えが進むたびに、低金利で発行された旧い国債が、高い利回りの新発債に置き換わっていく。
モーニングスターの2026年1月のレポートはこの動学を試算している。1,287兆円の残高が今後9〜10年かけて平均2.0〜2.5%で借り換えられた場合、利払い費の歳出全体に占める割合は現在の約9%から20〜25%に上昇する、と。OECD加盟の投資適格国で、利払い費が歳出の20%を超える国はほぼ存在しない。OECDの歴史的ピーク(1988年)でさえ11.3%だった。
ここが格下げを考えるうえでの核心だろう。金利上昇のインパクトが「ゆっくり効く」からこそ、政治は問題を先送りしやすい。しかし、借り換えが一巡する10年後には、もう後戻りできない。これは急性の危機ではなく、慢性の疾患に近い。だからこそ厄介だ。
2026年度予算の数字を見れば、この「慢性化」はすでに始まっている。国債費(利払い+償還)は31.3兆円で過去最高。利払い費の算定に用いる想定金利は3.0%に引き上げられた。前年度の2.0%からの急上昇であり、1997年度以来の水準だ。新規国債発行額は29.6兆円で、歳出の4分の1近くを借金で賄っている構図に変わりはない。
圧力②:「責任ある積極財政」と財政規律の行方
金利上昇と同時進行で、財政政策の方向性も変わった。2025年10月に発足した高市政権は「責任ある積極財政」を掲げ、危機管理投資と成長投資を柱とする歳出拡大路線を打ち出した。
2025年11月、高市首相は衆院予算委員会で、歴代政権が掲げてきた「プライマリーバランス(PB)の単年度黒字化目標」を取り下げ、「数年単位でバランスを確認する方向に見直す」と表明した。野村総合研究所の木内登英氏は、これが「財政健全化に向けた政府の姿勢が大きく後退することを意味すると広く捉えられかねない」と警鐘を鳴らしている。
ところが話はここで一捻りある。2025年12月に閣議決定された2026年度予算案では、当初予算ベースのPBが1.3兆円の黒字に転じたのだ。28年ぶりの黒字である。高市首相は選挙戦でもこの成果を前面に出し、「財政規律にも配慮した」と強調した。
単年度PB目標を「取り下げる」と言いながら、当初予算ではPBを黒字化させる──これは矛盾だろうか。慶應義塾大学の土居丈朗教授はこの構造に「カラクリ」がある可能性を指摘している。従来から日本の予算編成では、当初予算を抑制的に組んでおいて、年度途中の補正予算で大型の追加歳出を計上するという手法が常態化してきた。当初予算のPB黒字だけを見て財政健全化が進んだと判断するのは、決算(年度を通じた実績)を見るまで保留すべきだろう。
大和総研の神田慶司氏はより長い射程で問題を整理している。「ドーマー条件」──名目GDP成長率が名目金利を上回っている限り、債務対GDP比は発散しないという財政持続可能性の基本条件──が今後安定的に成立する保証はない、と。過去44年間(1981〜2024年度)を振り返ると、この条件が成立した年は12年間、全体の27%にすぎなかった。デフレ下で金利が低かった時代の「例外」が、あたかも「常態」であるかのように語られてきたのだ。
圧力③:日銀の退出と「価格発見」の開始
日銀は2024年8月から国債買い入れの段階的縮小を開始し、2026年1〜3月期には月間約3兆円まで減額する計画を進めている。ピーク時には月間6兆円だったから、半減だ。
この意味は単純ではない。日銀が市場の最大の買い手として君臨してきた時代、利回りは政策によって「決められて」いた。その人工的な蓋が外れることで、市場参加者が「この財政状況、この発行量、このインフレ率で、国債をいくらなら買うか」を自らの判断で値付けする──いわば「価格発見」のプロセスが再起動する。
2026年2月の10年債入札では、応札倍率が3.02倍と前回・12ヶ月平均をいずれも下回り、落札利回りは2.249%と前回の2.095%から大幅に上昇した。需要の弱含みを示す一つのシグナルだ。
もっとも、金利上昇は国内金融機関にとって国債投資の「妙味」が増すことも意味する。超低金利時代に海外へ向かった資金が、利回りの上がった国内債に回帰する可能性は十分にある。AMROの分析によれば、銀行セクターは日銀が手放すJGBの最大30%程度を吸収する余力がある(ただしIRRBB規制の上限に達するまで)。問題は、銀行が買えるのは短めの年限が中心であり、超長期ゾーンの需給は引き続きタイトになりやすいという構造的なミスマッチがある点だ。
圧力④:経常黒字の「質」の変化
バッファーの一角である経常黒字について、もう一段踏み込んでおきたい。
経済産業研究所(RIETI)のレポートは、日本企業が海外で稼いだ利益の約半分が内部留保として海外子会社にそのまま蓄積され、国内に還流していない実態を指摘している。統計上は「第一次所得収支の黒字」としてカウントされるが、実際のキャッシュが日本に戻ってこないのであれば、国内の資金循環や国債需要を支える効果は限定的になる。
加えて同レポートは、「日本企業の国際競争力がIT関連製品で低下し続けた場合、将来的に経常黒字を維持できなくなる可能性がある」と警告する。もしそうなれば、日本は国際収支発展段階説でいう「資産食い潰し国」──対外資産を取り崩して消費する段階──に移行するリスクがある、と。
これは現時点では「テールリスク(確率は低いが影響の大きいリスク)」に分類されるだろう。しかし、少子高齢化と労働人口の減少が進む中で、10年、20年のスパンで見たとき、このリスクの確率がじわじわと上がっていく可能性は意識しておくべきだ。
第4章 格付け会社は何をどう見ているのか
格下げのプロセス──段階を理解する
格付けがある日突然、大幅に引き下げられることは極めて稀だ。通常は以下の段階を踏む。まず見通し(Outlook)が「安定的」から「ネガティブ」に変更される。これは「今後1〜2年で格下げの可能性がある」という警告シグナルだ。次にクレジット・ウォッチ(格下げ方向での見直し)に載せられ、90日以内に結論が出される。そして最終的に格下げが実行される。
発表は通常、EU規制に基づき事前公表された日程の金曜日、市場閉鎖後に行われる。日本時間では土曜日の早朝だ。
格付け会社が見る「数字」と「制度」
格付け会社は政治家の発言を額面通りには受け取らない。彼らが見ているのは数字と制度だ。
定量面では、利払い費の対税収比率、名目GDP成長率と長期金利の関係(ドーマー条件)、PBの趨勢、経常収支と対外純資産の推移が主要指標になる。特に利払い費の比率は重要で、前述のモーニングスター試算が示すように、これが20%に迫れば「債務の持続可能性に深刻な疑義がある」という判断に傾きやすい。
だが、格付け会社が見ているのは数字だけではない。「定性的ファクター」──すなわち政策の予見可能性、制度の安定性、そして中央銀行の独立性──も格付けの重要な構成要素だ。ここに日銀と政治の関係という論点が浮上する。市場が「政府が日銀の利上げを政治的に封じている」と解釈する事態が生じれば、それ自体が格付けにとってネガティブなシグナルになり得る。フィッチの格付けコメントにも「中央銀行の金融戦略と広範な国内投資家層が、金融政策の段階的な引き締めにもかかわらず低い債券利回りと政府の資金調達能力を支えている」とあり、この前提が崩れるかどうかが分岐点になる。
フィッチの2026年1月コメントが示唆すること
2026年1月のフィッチの据え置きは、一見すると安心材料だ。しかし、そのコメントには留保が含まれている。「財政拡大が我々の現在の予測を大幅に超えるリスクは残る」──これは裏を返せば、「予測を大幅に超えたら動く」という意味だ。このラインがどこにあるのかを、市場参加者は常に探っている。
第5章 格下げシナリオ
ここでは3つのシナリオを時間軸に沿って整理する。いずれも「こうなる」という予言ではなく、「こうなった場合に何が起こり得るか」という条件付きのシナリオだ。
シナリオ1:見通し変更(Outlook Negative)──条件が揃えば2026年後半〜2027年
現時点で3社ともStableを維持しており、フィッチは2026年1月に拡張財政をすでに織り込んだうえで据え置いている。したがって、「見通し変更が最も蓋然性が高い」とまでは言えない。しかし、以下の条件が複数重なった場合、秋の定期レビューでOutlook Negativeが付与される可能性は排除できないだろう。
第一に、2026年度の補正予算で大型の追加歳出が常態化し、当初予算のPB黒字が帳消しになった場合。第二に、国債入札の応札倍率が継続的に低下し、テール(落札利回りと市場実勢の乖離)が拡大する傾向が定着した場合。第三に、PBの評価基準を「複数年度化」した新指標が曖昧なまま運用され、「結局いつまでに何を達成するのか」が見えないと格付け会社が判断した場合。
見通しが「ネガティブ」に変わること自体は格下げではない。過去にもフィッチは2021年8月に日本をネガティブに変更し、2022年3月に安定的に戻した例がある。政策対応次第で撤回されることもある。
シナリオ2:格下げの実行──2027年以降
見通しがネガティブになった後、1〜2年以内に改善が見られなければ、格下げが実行される。たとえばS&PのA+からA、ムーディーズのA1からA2への1ノッチ引き下げだ。
トリガーとなり得るのは、ドーマー条件の持続的な未達成(名目金利が名目GDP成長率を上回る状態の定着)、利払い費の対税収比率が15%を超えて上昇軌道に入ること、そして財政健全化の具体的な道筋(増税・歳出削減・構造改革のいずれか)が示されないこと、だろう。
1ノッチの格下げであれば、日本国債は依然として「A」ゾーン内にとどまり、投資適格の下限(BBB-)からは数段の距離がある。「ジャンク落ち」は、少なくとも向こう数年の射程では極めて考えにくい。
シナリオ3:バッファー消失──確率は低いが無視できないテールリスク
経常収支が構造的な赤字に転じる、対外資産の目減りが加速する、外貨準備が大幅に減少する──こうした事態が複合的に起これば、格付けの前提そのものが崩れる。ただし、現在のデータはこうした事態が差し迫っていることを示していない。これは5年や10年のスパンで頭の隅に置いておくべきリスクだ。
第6章 トラス・ショックとの比較──日本は「慢性型」のリスク
海外投資家の間で日本が英国の「トラス・ショック」(2022年秋、減税を打ち出したトラス政権下でポンドと英国債が暴落し政権崩壊に至った事件)と比較されることが増えている。高市政権の拡張財政路線との表面的な類似性が指摘されるためだ。
しかし、構造的な違いは大きい。第一に、日本は対外純資産国(債権国)であり、英国は対外純負債国(債務国)だ。資金流出に対する耐性が根本的に異なる。第二に、日本国債の海外投資家保有比率は約12%で、英国債の約30%より格段に低い。売り圧力の上限が違う。第三に、円はIMFのSDR構成通貨であり、国際準備通貨としての地位がポンドより厚い。
加えて、トラス・ショックの急激さを増幅させたのは、英国年金基金のLDI(Liability Driven Investment)戦略だった。年金基金がデリバティブを多用して金利リスクをヘッジしていたところに金利が急騰し、証拠金(マージンコール)が殺到して流動性危機を引き起こしたのだ。日本で同じ形のマイクロ構造リスクが顕在化する可能性は低い。
では日本は安全なのか。そうとも言い切れない。日本のリスクは英国型の「急性ショック」ではなく、「慢性型」──じわじわとした金利上昇、緩やかな円安の進行、国債入札における需要の漸減、利払い費の着実な増大──という形で現れる公算が大きい。急性なら市場と政治が即座に反応するが、慢性はかえって対応が遅れる。
保険・年金セクターのALM(資産負債管理)やヘッジコストの変化、超長期ゾーンの需給逼迫といった日本固有のマイクロ構造も、慢性的な圧力の経路として注視すべきだろう。
第7章 格下げは「悪いこと」なのか──過去の経験と今回の違い
過去20年間の日本国債格下げの歴史は、「格下げ=市場の混乱」という等式が必ずしも成り立たないことを示している。一部の格下げ後にはかえって金利が低下した事例すらある。日銀という巨大な買い手が市場を支えていたからだ。
だが、同じ経験を今後に当てはめることには慎重でありたい。日銀のバランスシート縮小が進む環境下での格下げは、過去とは異なるインパクトを持ち得る。厳格な投資規定を持つ一部の海外年金基金や機関投資家が、格下げをきっかけに自動的に売却を迫られる可能性もある。規模としては限定的だが、市場心理への影響は読みにくい。
もう一つ整理しておくべきことがある。「円建て国債のデフォルト(支払不能)はあり得ない」という議論だ。たしかに、自国通貨建てで中央銀行が存在する以上、狭義のデフォルト──約束した利払いや元本返済を行えなくなる事態──の確率は極めて低い。
しかし、歴史を紐解けば、自国通貨建てであっても「形を変えた信用イベント」は起きてきた。高インフレによる実質価値の毀損はその最たるもので、債券保有者は額面上の元利金を受け取りながら購買力を失う。金融抑圧(人為的な低金利の維持と実質的な資本規制)もまた、「緩やかなデフォルト」と形容されることがある。さらに、償還期限の強制的な延長や条件変更(リプロファイリング)は、新興国だけの話ではない。
つまり、「デフォルトしないから安心」は正確ではない。問われるべきは「デフォルトするかどうか」ではなく、「どのような経路で、債券保有者の実質リターンが毀損される可能性があるか」だ。
第8章 何を見ておくべきか
最後に、今後の展開を見極めるうえで追うべき指標を整理しておく。
①格付け会社の定期レビュー日程。S&Pとフィッチは春(3〜5月)と秋(9〜11月)の年2回、定期レビューを行う。2026年度予算の成立後、補正予算の編成時期と重なる秋のレビューが最初の山場になるだろう。
②10年債利回りの水準と入札の質。利回りの絶対水準だけでなく、入札の応札倍率やテール(最高落札利回りと平均落札利回りの乖離)を見る。応札倍率の低下傾向やテールの拡大が続けば、投資家の需要に陰りが出ているシグナルだ。
③経常収支の内訳、とりわけ第一次所得収支の動向。世界的な金利低下や株安で海外投資収益が縮小し始めていないか。デジタル赤字の拡大ペースがインバウンド黒字の伸びを上回っていないか。
④補正予算を含めた「実質的な」PBの動向。当初予算のPB黒字は、補正予算で帳消しにならなければ意味を持つ。年度を通じた決算ベースのPBこそが本当の判断材料だ。
⑤日銀と政治の距離感。中央銀行の独立性が疑われるような政治介入の兆候──利上げの見送り圧力、国債買い入れ縮小の先送り要請など──は、格付けの定性的評価を直撃する。
おわりに
日本国債の格下げは、明日にも起こる差し迫った危機ではない。533兆円の対外純資産、年間30兆円の経常黒字、国債の88%を占める国内投資家──これらのバッファーは依然として分厚い。フィッチが2026年1月の段階で拡張財政を織り込んだうえでStableを維持したことも、一つの事実だ。
だが同時に、「だから大丈夫」と言い切る根拠は、少しずつ削られている。27年ぶりの金利水準、歴史的な利払い費、PB目標の柔軟化(あるいは後退)、日銀の退出、少子高齢化による潜在成長率の低迷──これらは個々には「致命的」でなくとも、複合的に作用すればバッファーの厚みを確実に削っていく。
格付けは万能の指標ではない。2008年の金融危機でサブプライム関連証券に高格付けを与え続けた格付け会社の判断力には、今も批判がある。格付けを盲信するのは危険だし、無視するのも賢明ではない。
主要データ出典(すべて本稿中で参照した一次・二次ソース)
財務省「本邦対外資産負債残高」(2024年末)── 対外純資産 約533兆円
財務省「国際収支状況(速報)」(2024年暦年)── 経常黒字 約29.3兆円、第一次所得収支黒字 約40兆円
財務省「2026年度予算政府案」(2025年12月閣議決定)── 歳出 約122兆円、国債費 31.3兆円、想定金利 3.0%、新規国債 29.6兆円、PB黒字 1.3兆円
日本銀行「資金循環統計」(2024年12月末)── JGB・T-Bill保有者内訳:日銀46.3%、国内41.8%
フィッチ「Fitch Affirms Japan at 'A'; Outlook Stable」(2026年1月19日)
S&P「Japan 'A+/A-1' Ratings Affirmed; Outlook Stable」(2025年3月)
IMF World Economic Outlook(2025年10月)── 日本の一般政府債務 対GDP比 約235%
Morningstar「Japanese Bond Selloff」レポート(2026年1月)── 利払い費20-25%試算
大和総研 神田慶司「高市政権の積極財政は成長力を高めるか」(2026年1月)── ドーマー条件・純債務試算
野村総合研究所 木内登英「PB単年度黒字化目標の取り下げは財政健全化方針の転換か」(2025年11月)
Japan Times「Japan's trade deficit for digital services rose to record ¥6.6 trillion in 2024」(2025年2月)
RIETI「Japan's economic and fiscal challenges as indicated by the current account balance」
MOF JGB Newsletter(2025年4月号)── JGB保有構造データ
AMRO「Annual Consultation Report Japan 2024」── 銀行セクターJGB吸収余力分析
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