最近、文章や動画を少し安心して受け取れるようになった気がするんだけど

最近、文章や動画を、以前より少し安心して見られるようになった。

気がする。

もちろん、「〇国ざまあ」「日本最強」「〇〇はオワコン」と叫ぶだけの動画は別である。比較の基準も根拠もなく、事実と感情の区別さえつかないものは、この話の外に置く。AIはそうした意味不明な動画まで見栄えよく量産できるため、情報環境全体が賢くなったという話でもない。

ここで念頭に置いているのは、少なくとも何かを説明し、読者や視聴者に伝えようとしている文章や動画である。

そうした作品では、書き手や話し手の背後にAIがいると思えば、最低限の構成や論点整理は済んでいるだろうと期待できる。話が何度も逸れる。同じ説明が続く。いつまでも結論にたどり着かない。そのような負担は、以前より減ったように感じる。

AIが作品の中身を深くしたとは限らない。だが、文章の寝癖を直し、論点の襟を整える程度の仕事はしている。中身が同じでも、読む側が消耗しにくくなる。

もう一つ、心理的な変化もある。作品をクリエイター本人の能力や人格の直接的な表現だと思わず、「AIを含む制作工程の出力」と割り切れるようになった。

評価の軸が、ある程度、「この人は信頼できるか」から「この出力は使えるか」へ移ったのである。

AIが上げたのは、主に表現の最低水準である

AIは、散らばった材料を並べ直し、重複を削り、段落同士をつなぐ作業を得意とする。動画でも、台本の整理、字幕の作成、音声の調整、不要な間の除去などにAIや自動化技術が使われる。

以前なら編集者や校閲者が必要だった工程の一部を、個人でも簡単に利用できるようになった。その結果、作品の最高到達点より、まず最低水準が引き上げられたと考えると分かりやすい。

ただし、読みやすさと論理性は同じではない。

前提が誤っていても、文章は滑らかにできる。相関を因果関係と取り違えた説明にも、きれいな見出しを付けられる。AIが改善しやすいのは「話がつながって見えること」であり、その話が事実に照らして正しいことではない。

AIが減らすのは、質の低い思考そのものではない。それが質の低い形式のまま表に出る機会である。

読みにくさが減る一方で、発信者の理解不足は見えにくくなる。以前なら文章の粗さから気づけた問題が、整った文章の奥に隠れるようになった。

発信の前に、薄い審査層ができた

それでも、AIを発信前に使う価値はある。

原稿をAIに渡し、論理の飛躍、反例、説明不足、強すぎる断定を探させれば、AIは編集者や批判的読者の役割を部分的に担う。一人の頭の中だけで完結していた主張が、擬似的にせよ別の視点を通る。

とんでもない理論が生まれる原因は、知識不足だけではない。発信前に誰からも「別の説明も可能ではないか」と聞かれなかったことも大きい。

本人が仮説を作る。本人が都合のよい証拠を選ぶ。本人が自分を説得する。そして本人が拍手する。観客一名の学会である。

AIを批判役にすれば、その閉じた回路に小さな窓を開けられる。

  • 相関を因果関係として扱っていないか
  • 反対の事例は存在しないか
  • 限られた事例から一般化していないか
  • 主張を支える一次資料はあるか
  • どの条件なら結論が崩れるか

こうした質問を公開前に一度受けるだけでも、露骨な破綻は減る可能性がある。AIは、個人発信の前に置かれた簡易的な編集部として機能する。

それでも、AIによる確認は査読ではない

AIによる原稿確認は、査読に似ている。しかし、査読そのものではない。

国際医学雑誌編集者委員会は、査読を、通常は編集部に属さない専門家による批判的評価と位置づけている。査読には専門知識だけでなく、著者からの独立性、利益相反の管理、編集者の判断、記録と責任が含まれる。

AIには、著者からの独立性がない。

利用者が「弱点を厳しく探せ」と頼めば、AIは批判者になる。一方、「私の説が正しい理由を補強せよ」と頼めば、今度は弁護人になる。AIは編集者と弁護士を兼業しており、どちらの席に座るかは利用者が決める。

後者の使い方では、未熟な仮説にも専門語、整った構成、もっともらしい因果関係が付く。以前なら雑談で終わった思いつきが、研究報告書のような外見を手に入れる。

AIは自称専門家に沈黙を教えるとは限らない。立派なプレゼン資料を渡すこともある。

さらにAIは、誤った内容を流暢に述べることがある。米国国立標準技術研究所(NIST)は、生成AIのリスクの一つとして、誤りを確信ありげに生成し、利用者を誤導する「作話」を挙げている。

自信は文体であり、証拠ではない。AIによる確認は、査読よりも「自動化された編集・論理点検」と呼ぶ方が実態に近い。

AIは研究への事前コメントには使える

査読の代わりにはならなくても、AIが発信前の確認に使えることを示す研究はある。

2024年に『NEJM AI』へ掲載された研究では、GPT-4の指摘と人間の査読者の指摘を、Nature系列誌の3,096本と機械学習会議ICLRの1,709本で比較した。

その結果、GPT-4と人間の指摘点の重なりは、人間の査読者同士の重なりと同程度だったと報告されている。また、研究者308人を対象とした調査では、57.4%が生成されたフィードバックを「有用」または「非常に有用」と評価した。

これは興味深い結果だが、AIが研究の正しさを判定できるという話ではない。この研究でも、AIは方法設計への深い批判が弱いなどの限界を示している。

文章の問題点を見つける能力と、研究方法の妥当性を判定する能力は別である。建物の玄関を掃除できても、耐震性まで分かるわけではない。

問題は「査読前」ではなく、知見の見せ方にある

査読されていない研究が、直ちにデマになるわけではない。

新しい研究は、プレプリントとして査読前に公開されることがある。その後に検証され、重要な成果と評価される場合もある。査読前であることと、無価値であることは同じではない。

問題は、暫定的な結果や個人的な仮説を、確立した知見や専門家の合意であるかのように見せることだ。

「ある研究で可能性が示された」と「科学的に証明された」では、意味が大きく異なる。この間を省略すると文章は短くなるが、真実からも少し離れる。

反対に、査読済み論文も正しさの保証書ではない。査読者が研究を最初から再実施するわけではないからだ。

全米科学・工学・医学アカデミーも、科学的主張への信頼は、方法やデータの透明性に加え、反復的な検証を通じて形成されると整理している。

単一の論文があること。査読済みであること。専門家の肩書があること。これらは参考にはなるが、結論ではない。

読む側は、主張の種類を見分ければよい

AIの普及によって、自称専門家が減るとは限らない。AIから反論を受けて考え直す人もいれば、AIを使って自説をさらに巧妙に包装する人もいる。

情報の生産コストが下がれば、良質な説明と同時に、ネクタイを締めたデマも増えうる。

そこで重要になるのは、AIが使われているかどうかを当てることではない。発信されている主張が、何に基づいているかを見ることだ。

  • 確認可能な事実なのか、解釈なのか、仮説なのか
  • 根拠は一次資料か、単一研究か、複数研究の蓄積か
  • 研究は査読前か、査読後か
  • 追試や再分析は行われているか
  • 反対の証拠や不確実性が示されているか

この区別が見えれば、専門家らしい語彙や肩書だけで成立する発信は弱くなる。AIが付けた流暢さを取り除いたあと、どの証拠が残るかを確認できるからだ。

形式には安心し、内容には慎重になる

AIによって「読むに耐えない」「聞くに耐えない」が減ったという感覚には、相応の理由がある。

表現の訓練を受けていない人や、母語以外で発信する人の知見が、編集能力の不足だけで埋もれにくくなる。読む側も、構成の乱れに体力を奪われず、中身に集中できる。

ただし、形式が整ったことは、内容の信頼性が上がった証拠ではない。むしろ、文章の粗さが消えた分だけ、根拠、検証可能性、不確実性を意識して見る必要がある。

AI時代の読み方は、全面的な信頼でも全面的な不信でもない。

形式については以前より安心する。内容については以前より慎重になる。文章が読みやすくなって余った体力を、主張を確かめるために使う感じになると思う。

参考文献

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