国旗損壊罪を英国法で考える

国旗が傷つけられるのを見て、不快になる人はいる。嫌悪を覚える人もいる。その感情を軽く扱う必要はない。国旗には、国家の歴史、戦争の記憶、犠牲者への思い、国際社会の中での自国の位置、共同体への帰属意識などが重ねられている。ある人にとっては一枚の布でも、別の人にとっては自分の人生や家族の記憶と結びついた象徴である。

だから、国旗を燃やしたり、破ったり、踏みつけたりする行為を見て、強い反発が起きること自体は不自然ではない。むしろ、その反発を最初から「古い」「感情的だ」と切り捨てると、議論はかえって雑になる。国旗を大切に思う感情は、社会の中に現に存在する。

しかし、そこで一つ線を引く必要がある。不快に思うことと、その不快感を理由に国家が人を処罰することは同じではない。前者は個人の感情であり、後者は刑罰権の発動である。怒る自由、批判する自由、抗議する自由はある。だが、その怒りをそのまま刑罰に変換してよいかどうかは、別の問題である。

国旗損壊罪をめぐる違和感の中心は、おそらくここにある。国旗を大切に思う人がいることは理解できる。だが、国旗を大切に思う感情を、他人に刑罰で強制できるのか。さらに言えば、国家の象徴に対する否定的な表現を、国民感情の名で抑えることは、国民主権の社会でどこまで許されるのか。

不快感と刑罰の間にある距離

日本で議論されている「国旗の損壊等の処罰に関する法律案」は、国旗を公然と損壊、除去、汚損する行為のうち、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」によるものを処罰対象にする内容である。罰則は二年以下の拘禁刑または二十万円以下の罰金とされている。衆議院の議案情報では、二〇二六年六月十六日に提出され、六月三十日に衆議院で可決され、執筆時点では参議院で審議中とされている。

この法案には、表現の自由その他の憲法上の権利を不当に侵害しないよう留意する規定も置かれている。その点だけを見れば、立案側も表現の自由との緊張を意識していると読める。ただし、問題は残る。条文の入口に「著しく不快又は嫌悪」という言葉が置かれているからである。

刑法が人の感情をまったく扱わないわけではない。脅迫、強要、名誉毀損、侮辱、ストーカー規制、業務妨害など、人の恐怖、社会的評価、生活の平穏に関わる制度はいくつもある。ただし、それらは通常、より具体的な危害と結びついている。特定の人に向けた攻撃であること、社会的評価を低下させること、恐怖を与えること、業務を妨げること、つきまといによって生活の平穏を害することなどである。

これに対し、国旗損壊罪で守られるものはやや抽象的である。他人の所有する旗を壊したなら、器物損壊の問題として扱える。火を使って危険を生じさせたなら、危険行為として扱える。特定の人を脅したなら、脅迫の問題になる。暴力をあおったなら、公共秩序や治安の問題になる。

しかし、自分で所有する国旗を、政治的抗議として公然と傷つける行為まで処罰する場合、処罰の根拠は別の場所に求められることになる。その根拠として「国旗を大切に思う感情」や「不快感」「嫌悪感」が前面に出てくると、刑罰の基準としてはかなり扱いにくい。

不快感は主観的である。国旗を燃やす映像に耐えがたい怒りを覚える人もいる。一方で、それを国家権力への抗議表現として見る人もいる。ある人には侮辱に見えるものが、別の人には政治的意思表示に見える。刑罰は、そのように見方が大きく分かれる領域では、慎重に扱われる必要がある。

英国法の感覚では、何が問題になるのか

この問題を、英国、特にイングランド・ウェールズ法の感覚で眺めると、違いがかなり見えやすい。英国でも、ユニオンジャックを大切に思う人はいる。国旗を冒涜する行為を処罰してほしいという声や請願もある。したがって、英国社会が国旗への感情を持たないという話ではない。

ただし、英国には、一般市民が国旗を傷つけたこと自体を独立して処罰する犯罪類型は、少なくとも中心的な制度として定着していない。過去には国旗冒涜を犯罪化しようとする法案や議論もあったが、それが現行刑法の基本構造になっているわけではない。

英国で問題になるのは、通常、「国旗への不敬」そのものではない。問題になるとすれば、別の具体的なルールを破った場合である。

  • 他人の旗を壊した場合は、国旗だからではなく、他人の財産を壊したことが問題になる。
  • 人混みで旗を燃やし、周囲に危険を生じさせた場合は、火災や公共秩序の問題になる。
  • 特定の個人や集団に向けて脅迫的な言葉を浴びせながら旗を燃やした場合は、脅迫、嫌がらせ、憎悪表現の問題になり得る。
  • 暴力を誘発するような状況で行われた場合は、治安や公共秩序の問題として扱われ得る。

この整理の中心にあるのは、「国旗が侮辱されたか」ではなく、「具体的な危害があったか」という問いである。他人の財産、身体の安全、公共秩序、特定人の平穏、差別的攻撃の有無。英国法的な関心は、そこに向かいやすい。

たとえば、Criminal Damage Act 1971は、正当な理由なく他人の財産を破壊または損壊する行為を対象にしている。ここで重要なのは、財産が「他人のもの」である点である。国旗であるかどうかは、本質的な入口ではない。

また、Public Order Act 1986の五条は、脅迫的または虐待的な言葉や行動、あるいは秩序を乱す行動によって、嫌がらせ、不安、苦痛を生じさせる場合を扱う。注目すべきなのは、かつて同条にあった「insulting」、つまり単に侮辱的であるという要素が、二〇一四年から削除されている点である。英国の検察指針も、二〇一四年二月一日以降、単に侮辱的な言葉、行動、表示は五条の対象ではなくなったと説明している。

この変更は、英国法が表現の自由を完全に無制限にしているという意味ではない。英国にも表現規制はある。脅迫、嫌がらせ、差別的憎悪、公共秩序の侵害は処罰され得る。それでも、「侮辱的である」「不快である」というだけで刑罰を動かすことには、相当の警戒があると読める。

同じ国旗損壊でも、見ている場所が違う

ここで、同じような場面を二つに分けて考えると分かりやすい。

第一の場面では、ある人が自分で購入した国旗を、広場の一角で燃やしたとする。火の管理はされており、周囲に火災の危険はない。特定の人を脅してもいない。暴力をあおってもいない。政治的な抗議文を掲げ、国家の行為に反対する意思を示している。この行為は、多くの人を強く不快にするかもしれない。怒りを呼ぶかもしれない。道徳的に批判される余地もある。

しかし、英国法の感覚では、この場面で最初に問われるのは、国旗が傷つけられたこと自体ではない。他人の物を壊したのか。危険を生じさせたのか。脅迫的または虐待的だったのか。公共秩序を現実に害したのか。そうした問いが前に出る。答えがいずれも否定的であれば、刑罰を科す根拠は見つけにくい。

第二の場面では、誰かが他人の家に掲げられた国旗を引きちぎり、踏みつけ、燃やしたとする。この場合は、国旗損壊というより、まず他人の財産への侵害である。さらに、家の前で威嚇的に行われたなら、嫌がらせや脅迫に近づく。火の扱いが危険であれば、安全の問題も出てくる。特定の民族、国籍、宗教に向けた攻撃と結びつけば、差別的憎悪表現の問題も生じ得る。

この二つの場面を同じ「国旗損壊」としてまとめてしまうと、議論は粗くなる。問題は、国旗が傷ついたことなのか。他人の財産が壊されたことなのか。人が脅されたことなのか。公共の安全が害されたことなのか。英国法の発想では、この区別が重要になる。

日本の国旗損壊罪案に対する違和感も、ここから整理できる。危険行為や財産侵害や脅迫を処罰するなら、既存の法体系の中で説明しやすい。だが、そこから離れて、国旗を傷つける態様が「著しく不快又は嫌悪」を催させるという理由で処罰するなら、刑罰の焦点は具体的危害から感情へ移る。

不快な表現も、表現の自由の外側に置けるとは限らない

英国は、米国のように表現の自由を極めて強く保護する国とは制度的に異なる。議会主権の伝統があり、裁判所が法律を違憲無効にする仕組みも米国型とは違う。Human Rights Act 1998の下では、欧州人権条約上の権利が国内法上も重要な意味を持つが、それでも英国の制度を単純に「自由放任」と見るのは正確ではない。

それでも、欧州人権条約十条の表現の自由は、英国法を考えるうえで重要な基準である。同条は、意見を持つ自由、情報や考えを受け取り、伝える自由を保障している。もちろん、表現の自由は無制限ではない。公共の安全、秩序の維持、犯罪の防止、他者の権利保護などのために制約される余地はある。

ただし、その制約は、民主社会において必要なものとして説明されなければならない。この構造の下では、「多くの人が不快に思う」という理由だけでは、政治的表現を処罰する十分な根拠にはなりにくい。

欧州人権裁判所の有名なHandyside判決は、表現の自由について、好意的に受け取られる情報や考えだけでなく、国家または社会の一部を怒らせ、衝撃を与え、不安にさせるものにも及ぶと述べた。この一節は、自由社会における不快な表現の位置づけを考える際に、今もよく参照される。

もちろん、この判例を使えばどんな表現でも許される、という話ではない。欧州人権裁判所は、ヘイトスピーチや暴力扇動、ホロコースト否定などの文脈で、表現の制約を認めることもある。したがって、表現の自由を単純な免罪符のように扱うのは危うい。

しかし、国旗損壊のような政治的象徴行為については、やはり慎重な検討が必要になる。国旗を燃やす行為は、乱暴で、不快で、挑発的であるかもしれない。それでも、国家の行為に抗議する政治的メッセージとして行われる場合がある。そこで問われるべきなのは、表現が不快かどうかだけではなく、具体的な危害があるか、処罰が民主社会において必要といえるか、より限定的な手段で対応できないか、という点である。

国旗を粗末にしてよい、という話ではない

この議論で誤解されやすいのは、国旗損壊罪に慎重な立場が、国旗を粗末に扱うことを称賛しているかのように見える点である。しかし、それは違う。

国旗を大切にする自由はある。国旗を掲げる自由もある。国旗が傷つけられたことに怒る自由もある。国旗を燃やした人を批判する自由もある。社会的に非難すること、反論すること、抗議すること、選挙で意思表示することもできる。

問題は、その先である。怒ることと、国家に処罰させることは違う。道徳的に許せないことと、刑法で罰することは違う。社会が批判することと、前科を付けることは違う。

刑罰は、単なる不満の表明ではない。捜査、逮捕、起訴、有罪判決、拘禁刑、罰金、前科という形で、個人の自由に直接介入する制度である。だからこそ、刑罰を使うには、感情的な反発だけでは足りないと考える余地がある。

「不快だ」と言う自由はある。しかし、「不快だから処罰せよ」と言うとき、その主張は国家権力を呼び込む。ここに大きな違いがある。この違いを曖昧にすると、表現の自由は多数派感情に従属しやすくなる。

政治的表現の多くは、誰かを不快にする。政権批判、戦争批判、外交批判、天皇制批判、王室批判、宗教批判、歴史認識への異議、企業批判。どれも、誰かの大切なものを傷つける可能性を持つ。不快な表現を刑罰化する発想が広がれば、鋭い政治的表現ほど危うい場所に置かれる。

もちろん、社会には礼儀や節度も必要である。だが、礼儀や節度は、刑罰と同じではない。礼儀に反する表現を、ただちに犯罪にする社会は、自由な社会というより、許可された範囲でだけ語れる社会に近づく。

国民主権との関係をどう考えるか

日本国憲法は、主権が国民に存することを前提としている。国政の権威は国民に由来し、権力は国民の代表者が行使し、福利は国民が享受するという考え方である。国旗は国家の象徴であり、主権者そのものではない。国家もまた、主権者ではない。主権者は国民である。

この点を踏まえると、国旗損壊罪の問題は、単なる旗の扱いを超える。国家の象徴を、主権者である国民がどこまで批判できるのかという問題になる。

国旗を敬う国民もいる。国旗に誇りを感じる国民もいる。その一方で、国旗を国家権力の象徴として警戒する国民もいる。過去の戦争、植民地支配、国家による暴力、政治的抑圧を思い起こす人もいる。どちらも国民である。

「国旗は国民全体の象徴だから、それを傷つける行為は国民全体への攻撃だ」という言い方は、一見分かりやすい。ただし、その言い方には注意が必要である。国民全体という言葉は、しばしば多数派の感情と重なりやすい。国旗を大切に思う人の感情は「国民感情」と呼ばれやすい。一方で、国旗に批判的な人の感情は、国民感情として扱われにくい。

しかし、後者もまた国民である。国民主権とは、国民が国家に敬意を示す義務ではない。国民が国家を監視し、批判し、時には強い表現で拒否する自由を持つことでもある。国家象徴への敬意を、国民であることの条件のように扱い始めると、主権者と国家の関係は逆転しやすい。

この意味で、国旗損壊罪は、形式的には国民主権そのものを直接奪う制度ではない。選挙権を奪うわけでも、国会の構成を変えるわけでもない。だが、国民が国家象徴を使って国家を批判する自由を刑罰で狭めるなら、国民主権を支える表現の自由に影響する。問題はそこにある。

英国との比較で見える、日本の議論の急所

英国法との比較から見えるのは、単純な優劣ではない。英国にも表現規制の問題はある。公共秩序法制、ヘイトスピーチ規制、オンライン表現規制などをめぐって、自由との緊張は続いている。英国の制度を理想化する必要はない。

それでも、国旗損壊罪を考えるうえで、英国法の発想は参考になる。特に重要なのは、「不快であること」と「犯罪であること」を直結させない感覚である。

日本型の国旗損壊罪案では、「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」という言葉が処罰の入口に置かれている。もちろん、法案上は客観的事情を総合的に勘案するともされている。したがって、単なる主観だけで処罰される設計ではない、と説明する余地はある。

だが、それでも基準の中心に「不快」や「嫌悪」が置かれることの重みは残る。どれほど客観化を試みても、不快感や嫌悪感は社会的多数派の感情と結びつきやすい。国家象徴に対する抗議表現は、多数派から見れば「不快」でありやすい。そのため、処罰範囲は政治的に偏る可能性を持つ。

英国法的に整理するなら、こうなる。

  • 国旗を傷つけたこと自体ではなく、他人の財産を壊したかを見る。
  • 国旗を侮辱したこと自体ではなく、危険を生じさせたかを見る。
  • 不快にさせたこと自体ではなく、脅迫、虐待、嫌がらせに当たるかを見る。
  • 国家象徴への敬意ではなく、具体的な公共秩序や他者の権利が害されたかを見る。

この整理は冷たく見えるかもしれない。しかし、自由社会においては、この冷たさが一定の安全装置になる。人々の感情は大切である。だが、感情がそのまま刑罰になると、少数派の表現は不安定になる。多数派が不快に思う表現ほど、処罰の対象になりやすくなるからである。

英国法:不快感は反論の理由であって、刑罰の十分な理由ではない

国旗損壊罪をめぐる議論は、国旗を大切にするかどうかの問題に見える。しかし、実際にはそれだけではない。不快感をどこまで刑法に組み込むのか。国家象徴への敬意を、どこまで法的に要求できるのか。主権者である国民が、国家の象徴を批判する自由をどこまで持つのか。そうした問いが重なっている。

国旗を傷つける表現は、乱暴で、挑発的で、見る人を深く傷つけることがある。そのことは認められるべきである。だが、傷ついた感情があることと、刑罰を科すことは同じではない。

不快感は、反論の理由になる。抗議の理由にもなる。批判の理由にもなる。だが、それだけで刑罰の十分な理由になるとは限らない。刑罰を使うなら、財産侵害、危険、脅迫、嫌がらせ、暴力扇動、公共秩序への具体的影響など、別の説明が必要になる。

英国法の感覚から見ると、日本の国旗損壊罪案が異質に見えるのは、この点である。英国では、国旗が傷つけられたことよりも、具体的な実害があったかが前に出る。他人の物を壊したのか。火の危険を生じさせたのか。脅迫的だったのか。公共秩序を害したのか。そうした問いを通じて処罰の可否を考える。

日本の議論でも、この線引きは重要である。国旗を敬う自由はある。国旗を敬わない自由もある。国旗を傷つける表現に怒る自由はある。だが、その怒りを国家に預け、他人の政治的表現を処罰させることには慎重である必要がある。

国家は、国民の上にあるものではない。国旗も、国民の上にあるものではない。国旗を大切に思う人も、国旗に批判的な人も、どちらも国民である。国民主権の社会では、国家象徴への敬意を刑罰で統一するよりも、不快な表現に対して反論し、批判し、政治的に争う余地を残すことの方が、自由の基盤に近い。

不快に思う自由はある。嫌悪を表明する自由もある。しかし、その感情をそのまま犯罪の基準にするなら、自由の範囲は少しずつ狭くなる。国旗を守るという言葉の下で、主権者である国民の側が国家に遠慮する構造が生まれるなら、それは逆転である。

この問題で問われているのは、国旗を好きか嫌いかではない。不快な表現に出会ったとき、社会が反論で応じるのか、それとも処罰で応じるのかである。

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