英政府「企業に在宅勤務を強制へ」の見出しの裏で
「政府が企業に在宅勤務を強制へ」——こういう見出しを見ると、経営者目線なら「またコストが増える」と身構えるだろうし、通勤に疲れた会社員なら「やっと権利が認められた」と感じるかもしれない。英国でいうとReform UKのような政党は「会社に戻れ」と声を上げる。どの直感にもそれなりの根拠がある。
英国では法律がもう成立している
Employment Rights Bill(雇用権利法案)は、2025年12月18日に国王の裁可を受け、Employment Rights Act 2025として正式に成立した。Acasのサイトにも複数の大手法律事務所のレビューにも、この日付は一致して記載されている。「法案」ではなく「法律」だ。
ただし、成立したからといって翌日から全部が動くわけではない。英国の労働法改正は、一次立法が通ったあと、二次立法で具体的な規則を段階的に定めていく。柔軟な働き方に関する部分は2027年の施行予定で、いま(2026年2月〜4月)は運用ルールの公開協議の最中だ。
「在宅の権利」ではなく「拒否のコスト」が変わる
ここが最も誤解されやすい核心だ。新法は従業員に「在宅勤務をする権利」を直接与えるものではない。すでに2024年4月から入社初日に柔軟な働き方を申請できる。問題は「拒否」の扱いだ。
従来、企業は8つの法定事業理由のどれかを挙げれば拒否できた。拒否前の協議義務は2024年4月の改正で既に導入されている。2027年施行予定の新たな枠組みでは、さらに踏み込んで、拒否が「合理的だったか」が実体的に審査される方向だ。不合理な拒否は雇用審判所で争点化し得る。補償上限(最大8週間分の賃金相当、週給上限でキャップ)などの運用設計は二次立法で定まる予定で、いまは公開協議で詰めている段階にある。
つまり設計思想は「在宅を配る」ことではなく「拒否の期待コストを上げる」ことにある。境界線上のケース——在宅でもオフィスでもどちらでも回りそうな業務——で、企業が「争うより受ける」に傾く場面が増える。見出しの「強制」は法技術的にはズレているが、企業行動の予測としてはそこまで外れてもいない。
データは何を言っているか
「柔軟な働き方で労働参加率が上がる」という主張と「全員出社で生産性が回復する」という主張。どちらがデータに支えられているか。
現時点で最も信頼度の高いエビデンスは、スタンフォード大学のニコラス・ブルームらによるRCT(ランダム化比較試験)だ。中国の大手旅行会社Trip.comの1,612人を対象にしたこの研究(2024年、Nature誌掲載)では、週2日の在宅勤務に移行したグループの離職率が33%低下し、生産性や昇進率には影響がなかった。女性、非管理職、通勤距離の長い層で特に離職が減っている。
英国のCIPD調査(2025年、HR専門家2,050人・労働者5,017人対象)でも、雇用主の41%がハイブリッドワークで生産性が向上したと回答し、低下は16%にとどまった。King's College LondonとStanford大学のグローバル調査(G-SWA)によれば、英国の労働者の平均在宅日数は週1.8日でヨーロッパ最多だ。「在宅=生産性低下」を裏づけるマクロデータは、現時点で確認されていない。
ただし、上限はある
ここで短絡的に「全面リモートにすればいい」とはできない。柔軟な働き方が労働参加を上げるという仮説は、ミクロ(個人レベル)ではかなり確度が高い。通勤という固定費が下がれば、育児や介護を抱える人が「働く」側に傾きやすくなるのは経済学的に素直な帰結だ。
だがマクロで見ると明確な上限がある。在宅が成立しない職種——小売、介護、製造、運輸など——が労働市場の相当割合を占めていて、しかも制約を抱える層ほどこうした対面必須の職に偏在しやすい。年収5万ポンド以上の45%がハイブリッドを利用する一方、2万ポンド未満では8%にすぎない。恩恵は高学歴・高所得の知識労働者に集中している。
Reform UKの「会社に戻れ」が一定の支持を得るのは、毎日出社している人々にとって在宅推進が「他人だけが得をする話」に映るからだ。この感覚には、データ的な裏づけがある。
では一律RTOは答えになるか
RTOに便益がある領域は確かに存在する。暗黙知の移転、新人のオンボーディング、偶発的な会話から生まれるイノベーション。これらは対面に分がある。
しかし一律RTOは、この便益だけでなくコストも一律に引き受ける。ブルームのRCTでは、フル出社に比べてハイブリッドで離職率が3分の1低下した(7.2%→4.8%)。逆方向に見れば、ハイブリッドからフル出社に戻すと離職率は約1.5倍になる計算だ。Trip.comの試算で離職1件あたり約2万ドル。全社で年間数百万ドルの損失になり得る。
「最適な出社頻度は職務ごと・チームごとに違う」というのが、地味だが堅い結論になる。
見出しの先にあるもの
この制度変更が厄介なのは、効果が偏在することだ。恩恵は主に知識労働者に集中し、対面必須の業種には直接的な便益がほとんどない。柔軟性を提供できない業種は、採用市場で相対的に不利になり、賃金プレミアムの上昇か自動化投資の加速を迫られる。
「全員在宅」も「全員出社」も、仕事の異質性を無視している点で同じ種類の極論リスクがある。マクロ的には、データの示す均衡点はハイブリッドだが、その中身——週何日出社するか、誰が決めるか、評価の公平性をどう保つか——は多くの組織でまだ手探りだ。CIPDの調査でも、ハイブリッド導入企業の65%が最低出社日数を設けている一方、32%は明確なルールを持っていない。
法律は方向を示した。データは大まかな輪郭を描いた。だが職場ごとの最適解は、それぞれの現場で見つけるしかない。
※主な参照データ:Acas "Employment Rights Act 2025" 解説ページ/Pinsent Masons 施行ガイド/CIPD "Flexible and hybrid working practices in 2025"(HR専門家2,050人・労働者5,017人)/Bloom, Han & Liang (2024) Nature誌掲載論文/KCL & Stanford G-SWA グローバル在宅勤務調査
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