短編小説「チャピれカス」

 2028年の東京。木曜の夜、通知が鳴った。

 久しぶりの名前だった。タカシ。大学の研究室が同じだった男。最後に会ったのは去年の秋で、仲が悪いわけではないが、年に一、二回飲む程度の距離感になっていた。

 「ちょっと相談したいことがあるんだけど、今度飲まない?」

 返信欄に指を置いた瞬間、別の文が先に立ち上がった。

 ——それ、まずチャピった?

 打って、消した。打って、また消した。

 十年前なら「いいよ、いつにする?」と即答していた。なのに今は、胸のどこかに小さな抵抗がある。懐かしさではない。計算だ。この一言は、軽い飲みの誘いなのか。それとも、AIで処理しきれなかった残り滓をこっちに持ってこようとしているのか。

 そこまで考えて、自分がやっていることの滑稽さに気づいた。友人からの連絡を「処理コスト」で値踏みしている。いつからこうなったんだろう。

 結局、AIに聞いた。自分でも笑えたが、聞いた。「久しぶりの友人から相談があると言われた。正直少し面倒に感じている。どう返事すべきか」と打ち込んだ。

 返ってきたのは、きわめて合理的な回答だった。関係を維持するメリット、断った場合の社会的コスト、中間的な選択肢(オンラインで短時間だけ話す等)。箇条書きで、隙がなかった。

 読み終えて、閉じた。

 合理的な答えはもう手元にある。なのに、指が動かない。AIの箇条書きをそのまま判断に変換できない自分がいる。「まあ、タカシだしな」という、論理とは別の回路が邪魔をする。

 15分後、こう返した。

 「いいよ。来週の土曜、空いてる?」

 送信した瞬間、少しだけ疲れた。たかが友人との飲みの約束に、なんでこんなに認知リソースを使っているのか。

 2028年の東京で、この感覚は別に珍しくない。


壁打ちのコストがゼロになった世界

 まず前提を整理しておく。

 2020年代の後半に何が起きたかというと、「考えを整理するために誰かに話す」という行為のコストが、ほぼゼロになった。それだけのことだ。

 AIチャットの性能が上がったこと自体は、別に劇的な話ではない。2024年頃からすでにそこそこ使えたし、2026年あたりからは「まあ、だいたいの悩みはこれでいいか」という空気が広がっていた。転職するかどうか、上司との関係をどうするか、引っ越し先をどこにするか。そういう「正解が一つではないが、論点を整理すれば自分で判断できる問題」について、深夜3時でも、何の気兼ねもなく、何時間でも付き合ってくれる相手ができた。

 重要なのは、その相手が「感情を持たない」ということだった。

 人間に悩みを打ち明けるとき、私たちは必ず計算をしている。この話は重すぎないか。相手を心配させないか。否定されないか。的外れなアドバイスが返ってきたとき、どういう顔をすればいいか。——そういう計算が、まるごと消えた。

 最後に「本当に何も気にせず、頭の中のぐちゃぐちゃを全部そのまま言葉にした」のはいつだろう。人間相手だと、どうしても編集が入る。文脈を説明し、相手の知識レベルに合わせ、感情的に受け取られないように言い方を工夫する。そのコストに多くの人はもう慣れきっていて、意識すらしなくなっていた。


「ググれカス」の次に来たもの

 少し歴史を振り返る。

 2000年代に「ググれカス」という言葉が生まれた。検索すれば3秒でわかることを人に聞くな、という意味だ。インターネットが「事実を調べる」コストをゼロに近づけたことで、「調べずに聞く」行為の社会的コストが跳ね上がった。

 2028年に起きているのは、その拡張版だ。

 AIに聞けば論点が整理できる。仮説の比較もできる。反論の洗い出しもできる。感情の言語化すら手伝ってくれる。そういう「思考の前処理」がほぼ無料で手に入る環境で、それをやらずに人間に未整理の悩みをぶつける行為は、かつて検索しないで質問するのと同じ位置に来た。

 誰が最初に言い出したのかは知らない。たぶんXの誰かだろう。

 「チャピれカス」。

 まずチャット(AI)で整理してから来い。ChatGPTが代名詞になっただけで、実際にはどのAIでもいい。ClaudeでもGeminiでも。——とにかく、人間に来る前にAIを通せ。語感が乱暴だから広まった。「ググれカス」もそうだった。乱暴な言葉のほうが、空気の変化を正確に捉えることがある。

 もちろん、面と向かってこの言葉を使う人間はほとんどいない。「ググれカス」だって、実際に口に出す人はごく少数だった。でも、空気としては確実に存在していた。「それ、検索した?」という無言の圧力が。

 今の「チャピれカス」も同じだ。口には出さない。出さないが、誰もが薄々感じている。未整理の悩みを人間にぶつけることの敷居が、静かに、しかし確実に上がっている。

 さっき私がタカシの連絡に感じたあの「小さな抵抗感」は、まさにこれだ。


アンバンドリング

 誤解しないでほしいのだが、これは「AIのせいで人間関係が壊れた」という話ではない。

 私の友人の数は減っていない。飲み会も行く。雑談もする。SNSで冗談を言い合う。変わったのは、コミュニケーションの「内訳」だ。

 経済学にアンバンドリングという概念がある。一つのパッケージだったものが、要素ごとに分離すること。たとえば音楽。かつてはアルバムを一枚丸ごと買うしかなかったものが、iTunesで1曲ずつ買えるようになり、さらにストリーミングで所有そのものが不要になった。

 人間同士の会話にも、同じことが起きている。

 「会話」というパッケージの中には、もともと複数の機能が同居していた。情報交換、論点整理、感情の発散、共感の確認、信頼の構築、暇つぶし。これらが分離し始めた。

 情報交換と論点整理はAIへ。感情の初期処理——言語化してカオスを鎮めるところまで——もAIへ。人間の側に残ったのは、「同じ温度で笑う」「同じリスクを背負う」「答えのない問いを一緒に抱える」といった、効率化できない部分だ。

 これは「劣化」だろうか。

 わからない。人によるとしか言えない。ただ少なくとも、かつて「友人に相談する」という一回の行為で満たされていた複数の欲求が、今は別々のチャネルで満たされるようになった。そして、人間同士の対話に残された機能は、より純度が高く、より重く、より代替不可能なものになった。

 純度が高くなった、と言えば聞こえはいい。でも現実の感触はもう少し違う。純度が高いというのは、薄められないということでもある。以前なら雑談の中に自然に紛れていた「ちょっと重い話」が、今は雑談部分をAIに吸い取られて剥き出しになっている。だから人間に持ち込まれる会話は、平均的に重くなった。

 タカシの「相談がある」が、5年前より重く聞こえた理由はこれだ。


歴史は繰り返す

 技術が何かの限界費用をゼロに近づけるたびに、「人間がやる」こと自体が贅沢品になる。これは別に新しい現象ではない。

 産業革命で機械が布を織るようになったとき、手織りの布は実用品から工芸品になった。自動車が普及したとき、馬は移動手段からスポーツになった。録音技術が完璧な音楽を安価に届けるようになったとき、生演奏は日常から「体験」になった。

 いずれのケースでも、テクノロジーが「機能」を安く完璧に代替した瞬間、人間によるオリジナルは「機能」以外の何か——手触り、一回性、不完全さ——に価値の源泉を移している。

 会話も同じ道をたどっている。それだけのことだ。

 私の職場でも、変化は目に見える形で進んでいた。

 上司との1on1ミーティングに、AIで作った論点メモを持ち込まない同僚はもういない。未整理の報告を口頭で始めると、上司の表情がわずかに曇る。準備不足、という空気。3年前なら「まず話してみよう」で成立していた場が、今は「まず整理してから来い」が暗黙の前提になっている。人間の対話は、AIによる前処理の上に乗る「最後の20分」に圧縮されつつある。

 その一方で、逆方向に動いているものもある。知人の経営者が、月に一度「デバイス持ち込み禁止」の対話会を開いている。参加費は安くない。やることは、ただ話すだけ。テーマもなく、結論も出さない。散歩しながらの哲学的対話、のようなもの。最初に聞いたときは冗談かと思ったが、枠は毎回埋まるらしい。「不便であること」自体に金を払う人が、いる。

 大学時代のディベート部の後輩は、「AI禁止・リアルタイム限定」のルールで即興議論イベントを運営している。人間の不完全な認知で、その場で言葉を組み立てる。かつてはただの会話の一部だったことが、縛りのあるゲームになっている。乗馬が移動手段からスポーツになったのと同じ構造だ。

 かつて「ただの会話」だったものが、こうして複数の形態に割れ始めている。効率化されたビジネス対話。排他的な対話体験。知的スポーツ。それぞれが別の価格メカニズムを持ち、別の客層に向かっている。


土曜日

 新宿の居酒屋は土曜の夜で混んでいた。隣の席の笑い声がうるさく、店員は片耳のイヤホンに指を当てながら近づいてきた。

 「お通し、枝豆でよろしいですか」

 私がうなずくと、店員はもう一度だけ同じことを聞いた。声が届いていないのではなく、確認が必要なのだろう。耳の向こう側にいるのは人間ではない。たぶんAIだ。

 タカシが「生で」と言い、私が「ハイボール」と続けた。店員はメモを取らない。端末も触らない。ただ短く「承知しました」と言って、次の卓へ流れていく。

 注文は、私たちの返事を聞いたAIがそのまま拾っている。人間は、聞くためにいるのではなく、ここに立って、口を動かすためにいるのだ。

 タカシは少し痩せていた。目の下に薄い隈がある。去年の秋に会ったときより、明らかに疲れている。

 「で、相談って?」

 「転職しようかと思ってて」

 タカシはそう言いながら、スマホを取り出した。画面にはAIとのチャット履歴が開いていた。

 「一応さ、整理はしたんだよ。見る?」

 画面には、きれいな箇条書きが並んでいた。現職の年収と想定オファーの比較。業界の成長率。転職市場における自身のポジション。リスクシナリオ。意思決定のフレームワーク。AIが得意とする、隙のない構造化。

 「ちゃんとチャピってるじゃん」と私は言った。冗談のつもりだった。

 タカシは笑わなかった。

 「なんかさ、全部整理されちゃうと、逆にわかんなくなるんだよな」

 そう言って、スマホをテーブルに伏せた。

 私はビールを飲むタカシの顔を見ながら、正直に言えば、少し困っていた。AIの箇条書きは完璧だった。論点は網羅されている。リスクも定量化されている。あの整理を見た上で「わからない」と言われると、こちらとしては何を返せばいいのかわからない。

 そして、そう思った瞬間に気づいた。

 ——これは、私の問題なんじゃないか。

 タカシの「わからない」を前にして、「じゃあ何が足りないんだ」「何を求めてるんだ」と論点を探そうとしている自分がいる。タカシの発言を「処理」しようとしている。AIと同じことをやろうとしている。目の前に座っている人間が「わからない」と言っているのに、その「わからなさ」を理解する前に、構造化して回収しようとしている。

 これが、チャピれカスの本当の副作用なのかもしれない。

 AIとの壁打ちに慣れすぎた人間は、相手の言葉をまず「処理対象」として受け取るようになる。論点は何か。要約すると何か。解決策は何か。その高速処理が、目の前の人間の「まだ言葉になっていない何か」を掬い取る前に、会話を先回りして閉じてしまう。

 タカシが欲しかったのは、たぶん「処理」ではなかった。

 「転職の話、AIはなんて?」と聞いてみた。

 「条件面だけ見ればオファーのほうがいいって。中長期のキャリアパスを考えると移るべきだって。リスクシナリオは三つあって、どれも対処可能だって」

 「で、お前はどう思ってるの」

 タカシはしばらく黙った。枝豆を一つつまんで、皮を剥いて、食べた。隣のテーブルで誰かが大声で笑っていた。

 「……怖いんだよな、たぶん」

 声が小さかった。

 「何が?」

 「わからん。それがわかんないから困ってる」

 AIの箇条書きには、「怖い」とは書いてなかった。年収やキャリアパスやリスクシナリオの話はあっても、タカシの腹の底にある、論理では捕まえられないもやもやは、処理対象になっていなかった。

 でも、少し考えればわかる。タカシが怖がっているのは、転職そのものではないのだと思う。

 タカシはAIで完璧な分析を作った。でも、それは転職市場にいる他の全員も同じだ。全員が同じAIを使い、同じように論点を整理し、同じように最適なキャリアパスを描いている。完璧なロジックを組み立てる能力は、もう差別化要因ではない。全員が賢者のツールを持っている世界で、賢いことの価値がよくわからなくなっている。

 それどころか、理路整然としていること自体が価値なら、すでに会社にはそれを専業でやる存在がいる。タカシの会社でもそうだし、私の職場でもそうだが、今やバックオフィスの相当数の「社員」はAIだ。社員証が発行され、メールアドレスが付与され、Slackに常駐し、人間と同じワークフローの中でタスクをこなしている。経理処理、契約書のレビュー、レポート作成、データ分析。論理的に正確な仕事を、疲れずに、休まずに、人間の数分の一のコストで回している。「理路整然としている」ことに市場価値があるなら、その市場はもうデジタル社員で飽和している。いくらでも増殖する。

 しかも舞台は、日本だ。人が減り続ける国で、人手の穴をAIで塞ぎながら回している。求人票の給与の数字は上がる。足りないから上がる。でも生活の実感はそれほど楽にならない。値札のほうが先に動くから。

 親の世代が当たり前みたいにしていた海外旅行の話を、最近はあまり聞かなくなった。できないわけじゃない。でも「普通の選択肢」ではなくなった。

 AIが弾き出す「中長期のキャリアパス」は、その地盤の上に建っている。人間が理路整然としていることは、いったい何を守ってくれるんだろう。タカシの「整理されすぎると、逆にわかんなくなる」という一言が、少しだけ現実味を帯びて聞こえた。

 論点が整理されるほどに、整理されたものの足元が見えてくる。AIは「あなたの市場価値は高い」と言ってくれる。

 タカシの「怖い」は、たぶんそういう種類の怖さなのだと思う。——と思いたいだけかもしれない。

 正直なところ、わからない。

 私は他人の悩みを、対面で、答えの出ないまま受け止める経験が少ない。こういう話は、いつの間にかAI相手にしかやらなくなった。

「怖い」と言って、相手も一緒に沈んでくれる体験は、そこにはない。

 何も解決しない。

 私はしばらく何も言わなかった。何か気の利いたことを言おうとして、やめた。

 「怖いよな」とだけ言った。

 タカシは少し笑った。「お前に言われてもな」

 「そうだな」

 二人でビールを飲んだ。


タカシが見せなかったもの

 飲み会は3時間くらい続いた。転職の話は最初の30分で終わり——正確には、終わったというより自然に脇に流れ——あとは研究室時代の話、共通の知人の近況、最近見た映画の話、お互いの体調の話。いわゆる雑談だ。

 帰りの電車で、私は居酒屋での3時間を反芻していた。

 転職の話は、たぶん本題ではなかった。少なくとも、全部ではなかった。

 タカシの目の下の隈。少し痩せた体。「怖い」という言葉の手前にあった沈黙。箇条書きを見せたときの、どこか申し訳なさそうな表情——「ちゃんとAIで整理してきましたよ」という免罪符を差し出すような仕草。

 何かあったのだと思う。転職以外の何か。あるいは、転職という判断を困難にしている、もっと手前の何か。タカシはそれを言葉にしなかったし、私も聞かなかった。

 5年前の自分なら、聞いていたかもしれない。「本当は何があったの」と。でも今の私は、タカシの「わからない」を前にして最初に感じたのが「困った」だった。

 「処理できない入力が来た」という反応。友人の不安を前にして、CPUの使用率が上がったような感覚。

 これは本当に、私の問題だった。

 AIとの壁打ちに慣れた人間は、対話に「進捗」を求めるようになる。論点が明確になった、選択肢が絞れた、次のアクションが決まった——そういう「処理完了」の感覚がないと、会話が成立していないように感じてしまう。でも、人間が人間に話すとき、本当に必要なのはしばしば「進捗しないこと」だ。答えが出ないまま、同じ場所をぐるぐる回ること。その非効率さに誰かが付き合ってくれること。

 タカシは3時間かけて、たぶんそれを確認しに来た。AIの箇条書きが与えてくれない何かを。そして私は、その3時間のうち最初の30分を「処理」しようとして失敗し、残りの2時間半をかけて、ようやく「処理しなくていい」ということに気づいた。

 遅い。遅すぎる。でも、それくらいの時間がかかるのだ。人間は。


もう一つの「チャピれカス」

 一つ気づいたことがある。

 「チャピれカス」には、もう一つの意味がある。

 表面的な意味は「AIで整理してから来い」だ。でも、もっと深い層では、「お前の未整理な言葉を受け止める余裕が、私にはない」という告白でもある。

 タカシからの連絡に15分も迷った私。「わからない」と言われて「困った」と感じた私。友人の不安を前にして、まず「処理コスト」を計算した私。——これは全部、私の側の問題だ。タカシが悪いのではない。「チャピれカス」と思ってしまうこと自体が、AIに壁打ちを委ねすぎた人間の症状なのかもしれない。

 人間の言葉を「処理」として受け取るのではなく、「処理できないもの」としてそのまま受け取る能力。それが錆びている。摩擦のない対話に慣れすぎて、摩擦そのものに耐えられなくなっている。

 「チャピれカス」は、未整理の悩みを持ち込んでくる相手への苛立ちに見えて、実は、未整理の悩みを受け止められなくなっている自分への苛立ちなのかもしれない。

 断定はしない。私がたまたまそういう性格なだけかもしれないし、そもそもこれが一般的な感覚なのかどうかも、人間と壁打ちしてないので自信がない。


「チャピれカス」の壁

 結局のところ、「チャピれカス」の壁を突破できるかどうかは、何で決まるのだろう。

 現金で決まる部分もある。プロのコーチやカウンセラーに払う金額。しかし、友人や同僚との間では、別の通貨が使われている。社会関係資本——平たく言えば、信頼の貸し借り——だ。

 「以前、こっちの面倒な話を聞いてやった」「一緒に修羅場をくぐった」「理由もなく時間を共有してきた」。そういう蓄積が、「AIに聞けばいいのに、あえて私に聞いてくる」ことを許容する原資になる。

 タカシと私には、AIが当たり前になる前の大学時代の蓄積があった。あの十五分の逡巡の末に「いいよ」と返せたのは、合理的な判断ではなく、その蓄積がモノを言ったのだと思う。

 逆に言えば、この蓄積がない相手に未整理の相談を持ちかけるのは、今後ますます難しくなる。信頼残高のない相手の認知リソースを奪う行為は、文字通り「チャピれカス」と見なされる。

 これが意味するのは、社会の不平等が「所得」だけでなく「関係資本の厚み」によっても拡大しうるということだ。お金がある人はプロの人間壁打ちを買える。信頼関係が厚い人は友人や同僚との壁打ちができる。どちらもない人は、AIとの対話だけが残る。AIは優秀だが、AIだけで閉じた思考にはリスクがある。

 もちろんこれは極端なシナリオで、現実はもっとグラデーションがある。でも方向としては、そっちに向かっている。


帰り道

 居酒屋を出たのは11時過ぎだった。新宿の夜は相変わらずうるさくて、酔っ払いが歩道にはみ出していて、どこかの店から演歌が漏れていた。

 タカシは「なんかちょっとすっきりした」と言った。

 私は「何も解決してないけどな」と返した。

 「うん。でもいいんだよ、そういうのは」

 生産性で言えば、あの3時間はゼロだ。論点は一つも整理されていない。意思決定は進んでいない。タカシの「怖い」の正体もわからないままだ。合理的に考えれば、あの時間は無駄だった。

 でも、無駄だったかどうかを判定すること自体が、たぶんずれている。

 あの3時間の価値は、「何かが解決された」ことにあるのではなく、「解決されないまま、二人がそこにいた」ことにある。

 きっと、チャピったら、お互いの有限な時間と注意力を消費させることで、関係の真正性を確認する儀式——とか言うのだろう。が、正直そういう分析は完全には腹落ちしなくなってきている。「人間はそういうふうにできている」としか言いようがないものだ。

 来月、タカシとまた飲む約束をした。相談ではなく、ただの飲みだ。特に話すこともないかもしれない。

 電車の中で、ふとスマホを開いた。AIのチャット画面。昼間に打った「友人の相談を受けるべきか」への回答がまだ残っていた。箇条書き。合理的。隙がない。

 読み返して、閉じた。

 あの箇条書きは、間違ってはいなかった。でも、「まあ、タカシだしな」で送信ボタンを押した判断のほうが、たぶん正しかった。少なくとも、今日に限っては。

 あなたには、「チャピれカス」と言わずに付き合ってくれる相手が、何人いるだろう。

 ——そして、誰かの「わからない」を、処理せずにそのまま受け取れる自分が、まだ残っているだろうか。



あとがき

 これは2028年の想像だ。実際、テクニカルなことはわからないし、単なる妄想だ。

 2026年のAIでチャピってみると、きっと「それっぽい答え」が返ってくる。

 現実味が増すなら、その答えが当たっているからじゃなくて、当たってしまう気がしているからだ。

 その「それっぽい答え」を読んだあとに、もやもやが残るなら。それはたぶん、AIが処理できなかった部分だ。そして、それを誰かと共有できないと感じたなら、チャピれカスはもうあなたの中にある。






作者注:本作は近未来を想定したフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。

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