引力には逆らえない――英国が「近所づきあい」を再開するまでの話

2026年2月、英国のレイチェル・リーブス財務相がロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの壇上で、こう言い切った。「最も価値あるもの(biggest prize)は、明らかにEUとの関係だ」。英国の貿易の約半分がEU相手であり、それは「残りの世界全体とほぼ同じ規模だ」と。

この発言に、右派は「Brexitの裏切りだ」と反発した。中道の自由民主党は「まだ足りない、関税同盟に戻れ」と詰め寄った。労働党政権は板挟みになっている――ように見える。

だが、この話の核心は政治ドラマではない。リーブスが持ち出したのは「経済の引力(economic gravity)」という、国際経済学では退屈なほど基本的な概念だった。つまり、貿易量は相手国の経済規模に比例し、距離に反比例する。大きくて近い相手とたくさん取引する。それだけの話だ。では、なぜこの「当たり前のこと」を、財務相がわざわざ公の場で宣言しなければならなかったのか。そこに、この6年間の英国が歩いてきた道の屈折がある。

「世界に打って出る」はどこへ行ったか

英国がEUを離脱したのは2020年1月。その後、保守党政権は「グローバル・ブリテン(Global Britain)」を掲げた。EUという足かせが外れた英国は、世界中と自由に貿易し、繁栄する――そういう物語だった。

日本でいえば、どんな響きだろうか。「美しい国」や「日本列島改造論」に近いかもしれない。どちらも、現実の制約条件を精神論や壮大なビジョンで飛び越えようとするスローガンだった。グローバル・ブリテンにも、大英帝国時代の「七つの海をまたにかける海洋国家」という記憶がどこかで重なっている。我々は欧州の一国に埋没するような存在ではない、という例外主義。それ自体は、国民感情として不自然でも不健全でもない。

問題は、地図が思い通りに動かないことだった。

確かに英国は離脱後、いくつかのFTA(自由貿易協定)を結んだ。オーストラリア、ニュージーランド。しかし英国政府自身の試算で、オーストラリアとのFTAのGDP押し上げ効果は15年かけて0.1%。誤差のような数字だ。2024年に政権を取った労働党は、その後インド、米国、韓国とも貿易協定を結んでいる。しかし、これらすべてを足しても、EUとの摩擦コストを埋めるには到底足りない、というのが繰り返し指摘されてきた現実だった。

なぜか。答えは単純で、EUは近くて巨大だからだ。2024年時点で、英国の輸出の41%、輸入の51%がEU向けである(英国下院図書館、2025年4月)。物品貿易に限ればEUの比重はさらに高く、輸出の47%、輸入の53%を占める(英国歳入関税庁、2025年11月データ)。地球の裏側のオーストラリアやニュージーランドとの取引を倍増させたところで、ドーバー海峡の向こう側との関係を1割改善する効果に及ばない。引力モデルが教える、ただそれだけのことだ。

数字は何を語っているか

ここで、Brexitの経済的影響に関するデータを確認しておこう。感情論を排して、何が起きたのかを見る。

2025年12月にキングス・カレッジ・ロンドン、スタンフォード大学、イングランド銀行などの研究チームが全米経済研究所(NBER)のワーキングペーパーとして発表した研究がある(Bloom et al. 2025)。33の先進国との比較で、2025年までにBrexitが英国のGDPを6~8%押し下げ、企業投資を12~18%低下させ、雇用を3~4%、生産性を3~4%それぞれ下げたと推計している。

この数字をどう受け止めるかは立場によって異なる。「Brexitの影響を過大に見積もっている」という反論もある。英国のシンクタンクPolicy Exchangeは、輸出減少の大部分は北海油田の減産や特定産業の構造的衰退で説明でき、Brexitに帰すべきは一部だと主張している。

ただし、大きな構図としては争いにくい事実がある。英国のEU向け物品輸出は、2017年から2019年にかけて年間2,150億ポンドを超えていたが、Brexit後の2024年には1,770億ポンドにとどまっている。実質ベースで2019年比18%のマイナスだ(英国下院図書館)。しかもこの間、EU域内貿易やEUと第三国との貿易は30%以上伸びている。英国だけが取り残された格好になっている。

もうひとつ注目すべきは、中小企業への影響の偏りだ。LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)のチームが税関記録をもとに分析したところ、TCA(貿易協力協定)発効後、それまでEUに輸出していた企業の約14%――約16,400社――がEU向け輸出を停止した。従業員6人以下の小規模事業者に至っては、輸出額が平均30%減少している。関税はゼロでも、書類作成や適合性証明といった非関税障壁の固定費が、小さな企業には致命的だったわけだ。

では、サービス貿易はどうか。実は、ここは明るい。英国のEU向けサービス輸出は2024年に実質ベースで2019年比19%増と好調で、ロンドンの金融・コンサルティングのハブ機能は健在だ。ただし、TCAは金融サービスをほとんどカバーしておらず、この分野の好調はBrexitの制度的成果というより、ロンドンという都市の蓄積された集積力による。

なぜ「今」この発言が出たのか

リーブスの発言が2026年2月というタイミングだったことには、構造的な理由がある。ひとつは制度日程、もうひとつは外部環境だ。

制度日程から見ると、2026年はTCA(貿易協力協定)の5年見直しの年にあたる。TCA第776条は、発効から5年後に実施状況を共同レビューすると定めている。EU側は「レビューであって改訂ではない」と釘を刺しているが、英国下院の調査資料が指摘するように、この窓口は「技術的な棚卸し以上の政治的モメンタムになり得る」(英国下院図書館、2025年11月)。

実際、2025年5月の英EUサミットでは、年次首脳会談の制度化、SPS(衛生植物検疫)協定の交渉開始、排出量取引スキームの連結、エラスムス・プラスへの準加盟(2027年開始予定)、若者交流スキームなどが合意された。2026年2月にはTCAパートナーシップ評議会がロンドンで開かれ、漁業アクセスの長期安定化やエネルギー章の恒久化も決まっている。リーブスの発言は、こうした水面下の動きに「国内向けのラベル」を貼る作業だったと見ることができる。

もうひとつの要因は、米国だ。2025年以降、トランプ大統領は広範な関税を導入し、NATOへの関与を揺るがせている。英国は2025年6月に米国と「経済繁栄協定」を結んだが、その中身は自動車10万台分の関税軽減と牛肉関税の撤廃など限定的で、鉄鋼・アルミ関税は維持されたままだ。「米国と自由に商売する」という夢は、トランプ関税の前に色あせた。

同時に安全保障面でも、米国がウクライナやNATOから手を引くリスクが現実味を帯び、英国は欧州諸国との防衛連携(有志連合:Coalition of the Willing)に動いている。経済と安保という2つの動機が、「EU側に寄る」という同じ結論に収束している。リーブスが「安全保障、レジリエンス、防衛の理由からも」英国の将来は欧州と不可分だと述べたのは、このためだ。

「リセット」の中身は何か

ここで整理しておきたいのは、労働党が言う「リセット」が具体的に何を意味するかだ。誤解されやすいが、これは「EU再加盟」ではない。単一市場にも関税同盟にも戻らない、というのが労働党の政治的レッドラインであり、スターマー首相は繰り返しそう明言している。

では何をするのか。英国シンクタンクInstitute for Governmentの整理に基づけば、主な交渉領域は以下の通りだ。

第一に、SPS(衛生植物検疫)協定。現在、英国からEUへ食品を輸出する際には煩雑な書類と検査が必要になっている。EUの衛生基準に英国が「動的に適合(dynamic alignment)」することで、これらの障壁を大幅に下げようとしている。これが最も実務的なインパクトが大きいと目されているが、同時に「EUの規則に従う=ルールテイカーになる」と批判される最大のポイントでもある。

第二に、専門資格の相互承認(MRA)。サービス輸出における障壁を下げる。単一市場ほどの効果は出ないが、移民論争を直撃しにくいため、政治的に通しやすい。

第三に、規制の分野別整合。自動車、化学物質(REACH規制)、データ、エネルギーなどの分野で、英国独自の認証制度(UKCAマーク等)による企業の二重コストを削減する方向。産業界のメリットは大きいが、「規制主権」の議論を再燃させるリスクがある。

第四に、防衛・安全保障の協力枠組み。調達、産業協力、共同プロジェクトなど。これはトランプ以後の外部環境が最も直接的に押している分野だ。

要するに、「関税同盟や単一市場には戻らない」という政治的境界線の内側で、非関税障壁を可能な限り削る、という設計になっている。CER(欧州改革センター)の分析が指摘するように、この「レッドラインを守りながらの最適化」は、貿易摩擦の最大化解消ではなく、「制約条件のもとでの費用対効果最大化」である。通関手続き、原産地規則、税関申告といった「Brexitの核」は残る。だからこそ、自由民主党のデイヴィー党首は「関税同盟に戻らなければ効果が薄い」と批判している。

「裏切り」か「現実主義」か

リーブスの発言に対する国内の反応は、英国政治の断層線をきれいに映し出している。

保守党のメル・ストライド影の財務相は「リーブスとスターマーは初日からBrexitを覆したがっていた」と攻撃した。Reform UKのスエラ・ブレイバーマン議員は「労働党はBrexitを侵食することに血道を上げている」と述べ、「史上最大の民主的投票の結果を解体しようとしている」と断じた。

彼らの主張の核心は、政策の中身への反論というよりも、「主権の物語」の防衛だ。ルールテイカーになるくらいなら不便を受け入れるべきだ、という議論は、経済合理性の枠組みでは測りにくい。それは、アイデンティティの問題だからだ。

一方でリーブスが「経済の引力は現実だ」と言い切ったのは、テクノクラート(実務家・専門家)側からの明確なカウンターだった。地図を見ろ、データを見ろ、という立場だ。

この対立構造は、日本にも見覚えがあるかもしれない。理想と現実、物語とデータの間で政策が揺れるのは、どこの国でも起きることだ。「日本スゴイ」的な自己肯定の言説と、「いや、データを見ればこうだ」という冷めた分析の緊張関係。それ自体は健全な民主主義の振り子運動でもある。

ただし、英国の場合、振り子が一方に振れた結果としてBrexitが実行され、その経済的コストが数字として蓄積されてきたという点で、もはや「どちらの物語を信じるか」の段階を超えている面がある。GDP6~8%の減少という推計が正確かどうかは議論があるにしても、EU向け物品輸出がBrexit前の水準に戻っていないこと、中小企業の約14%がEU向け輸出をやめたことは、動かしにくい事実だ。

何が本当に動いているかを見分けるには

最後に、ひとつ留保を加えておきたい。

リーブスの発言を「方針転換」と呼ぶかどうかは、定義次第だ。レッドラインを維持している以上、枠組みは変わっていない。変わったのは優先順位の明示だ。2026年TCAレビューという窓がもともと存在しており、そこに向けた「助走の言語化」と見るほうが正確だろう。CERの論文が述べるように、「EU側は、これはレビューであって改訂ではない、更新でもないし修正でもない」と繰り返しており、過度な期待は禁物だ。

言葉だけのリセットと、実務が動くリセットは別物である。今後、実際に何が変わるかを見極めるためのチェックポイントをいくつか挙げておく。

SPS協定において、英国がどの程度の整合(固定か動的か)を受け入れるかの公式文書が出るか。専門資格MRAやデータ、化学・自動車など分野別の共同作業部会やロードマップが具体化するか。2026年TCAレビューが「技術レビュー」で終わらず、通商と安保を束ねた政治的パッケージに発展するか。そして、国内向けの説明が「裏切り」対「リアリズム」の二項対立に回収されず、具体的な費用便益の議論として進むか。

これらが一つずつ動くかどうかで、リーブスの発言が単なるシグナリングだったのか、それとも実際の政策変更の起点だったのかが判別できるようになる。

引力の話に戻る

貿易の重力モデルは、1960年代にヤン・ティンバーゲンが定式化した。ノーベル経済学賞を受賞した計量経済学の創始者で、その後もアンダーソンやバン・ウィンコープらによって理論的な基盤が整備されてきた。半世紀以上にわたって実証的に支持されてきたこのモデルが言っていることは、驚くほど素朴だ。大きくて近い相手とは、たくさん取引する。それだけだ。

英国からフランスまでは約340キロ。英国からオーストラリアまでは約17,000キロ。EUの経済規模は世界第2位。オーストラリアは第13位。この二つの数字の組み合わせが、貿易パターンの大枠を決める。政治的な意志や文化的な親近感は、この引力を多少は修正できるが、根本的には覆せない。

英国がBrexitで試みたのは、この引力を政治の力で否定することだった。6年が経ち、そのコストが可視化されてきた。リーブスの発言は、引力に逆らうのをやめよう、という宣言だ。ただし、一度離れた軌道をもとに戻すのは、そこから離脱するのと同じくらい、あるいはそれ以上に大きなエネルギーを要する。

CERの推計では、現在検討されているリセットの施策群がすべて実現した場合のGDP押し上げ効果は0.3~0.7%。Brexitによる6~8%のGDP損失のごく一部しか取り戻せない計算だ。引力に従う方向に舵を切ったとしても、失われた時間は戻らない。

それでも、この方向転換が合理的かどうかと問われれば、答えは明らかだろう。遠くの友人より近くの隣人のほうが、日々の暮らしに影響が大きい。それは国家間の貿易でも、個人の生活でも、同じことだ。

問題は、その「当たり前のこと」を言うために、6年と数兆ポンドが必要だったということかもしれない。

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