くじ引きで決める、を真面目に考える
選挙の翌朝、SNSを開くと決まって同じ光景が広がっている。「なぜこの結果になるのか」「国民は何も考えていないのか」という嘆き。その嘆きは、与党の圧勝でも野党の躍進でも、立場を入れ替えて繰り返される。勝った側は「民意が示された」と胸を張り、負けた側は「有権者は騙された」と歯噛みする。だが、どちらの反応も、ある前提を共有している——選挙の結果は国民の意思を正確に反映しているはずだ、という前提だ。
本当にそうだろうか。少し立ち止まって考えてみたい。問題は「誰が勝ったか」なのか。それとも、「選挙」という仕組みそのものに構造的な歪みがあるのか。
この問いに対して、いま世界中の政治学者や実務家が真剣に取り組んでいる代替案がある。「くじ引き民主主義」——正式にはソティション(sortition)、あるいは熟議型市民会議と呼ばれる制度だ。OECDのデータベースには、1979年から2023年までに世界で実施された733件の抽選型熟議プロセスが記録されており、少なくとも8万人以上の市民がくじ引きで選ばれて政策議論に参加した。制度化された常設型の事例も、2020年の22件から2023年には41件に倍増している。
「くじ引きで政治を決める」と聞くと、冗談か、あるいは古代の遺物のように聞こえるかもしれない。だが、これは理念だけの話ではなく、すでに現実に動いている制度であり、しかも目覚ましい成果を出している。本稿では、選挙が抱える構造問題を整理したうえで、くじ引き民主主義が実際にどう機能しているかを検証し、そのリスクと限界も含めて考えてみたい。
小選挙区制が生む「歪み」の正体
小選挙区制は、得票率と議席率の乖離を構造的に生む。たとえば得票率50%の政党が議席の70%を獲得し、得票率30%の政党が議席の15%にとどまる、ということが普通に起こる。一位の候補だけが当選するので、二位以下に入れた票はすべて「死に票」になる。
この制度には「強い政権を作りやすい」というメリットがある。だが同時に、有権者の意思が正確に議席に反映されないという代償を払っている。比例代表制なら得票率と議席率はほぼ一致するが、今度は小政党が乱立して連立交渉が長引くリスクがある。優先順位投票(有権者が候補者を順位づけする方式)や二回投票制(一位が過半数に達しなければ上位2名で決選投票)など、さまざまな改良案が提案されているが、どれも一長一短であり、完璧な選挙制度は存在しない。
ただし、ここで注目すべきは別の論点だ。どの選挙制度を採用しようと、「選挙」という行為そのものが抱える限界がある。有権者は数年に一度、候補者の名前を一つ書くだけだ。その一票に、経済政策への賛否も、外交方針への評価も、候補者の人格への信頼も、すべてを込めなければならない。しかも多くの場合、有権者が持っている情報は限られている。政策の詳細を読み込む時間も動機も、大半の人にはない。
これは有権者を責めているのではない。合理的な行動だ。一票が選挙結果を変える確率は天文学的に低い。だから、わざわざコストをかけて情報収集する「見返り」がない。経済学ではこれを「合理的無知(rational ignorance)」と呼ぶ。選挙制度が市民に「考えないこと」を合理的にしてしまっているのだ。
そして、考えないことが合理的な有権者に向かって、政党は「考えなくても分かるメッセージ」を発信するインセンティブを持つ。ワンフレーズ・ポリティクス、感情に訴えるスローガン、敵をつくって攻撃する戦法——これらはすべて、合理的無知の環境に最適化された戦略だ。問題は有権者の知性ではなく、有権者に知性を使わせない構造にある。
「くじ引き」は冗談ではなく、古代アテネの本流だった
意外に思われるかもしれないが、民主主義の発祥地である古代ギリシャのアテネでは、「選挙」ではなく「くじ引き」が民主主義の主要な制度だった。将軍など一部の専門職を除き、評議会や裁判所の構成員はくじ引きで選ばれていた。アテネ人にとって、選挙はむしろ貴族政治の道具であり、金持ちや弁の立つ人間が有利になる制度だった。くじ引きこそが「すべての市民に平等な機会を与える」真の民主主義だと考えられていた。
2000年以上のときを経て、この考え方が現代政治学で再評価されている。きっかけは、選挙による代表制民主主義の機能不全——投票率の低下、ポピュリズムの台頭、政治不信の深刻化——が世界的に顕在化したことだ。
現代のくじ引き民主主義は、古代のそれとは大きく異なる。統計学の技術を使い、性別、年齢、地域、学歴、所得などの属性が母集団(国民全体)の縮図になるよう「層化抽出」を行う。ランダムに数万人に招待状を送り、参加意思のある人の中から代表性を確保するよう調整する。世論調査のサンプリングに近い手法だ。
選ばれた市民は、数日から数ヶ月にわたって、専門家の講義を受け、賛否両方の立場の意見を聞き、小グループで議論し、最終的に秘密投票で提言をまとめる。このプロセス全体を「熟議(deliberation)」と呼ぶ。
アイルランドの99人が動かした国——実例が語るもの
くじ引き民主主義の最も劇的な成功例は、アイルランドだろう。
カトリックの伝統が強いアイルランドでは、1983年の憲法修正で人工妊娠中絶がほぼ全面的に禁止された。以後35年間、政治家はこの問題に触れることを避け続けた。賛成しても反対しても票を失う。典型的な「政治が決められない問題」だった。
2016年、アイルランド議会は市民会議(Citizens' Assembly)を設置した。くじ引きで選ばれた99人の市民が、年齢、性別、社会階層、地域が国民全体の縮図になるよう選出された。賛成派も反対派も「未定」の人もいた。彼らは2016年11月から2017年4月まで、5回の週末セッションにわたり、医学・法学・倫理学の専門家の講義を受け、個人の証言を聞き、小グループで議論を重ねた。
結果は、64%が「制限なしの中絶」を支持するという、多くのメディア予測を覆すものだった。2017年5月の世論調査では「すべての状況での中絶合法化」を支持する国民はわずか23%だったことを考えると、市民会議の結論は世論の先を行っていたように見える。しかし翌年5月の国民投票では、66.4%が憲法修正に賛成した。市民会議の結論と国民投票の結果がほぼ一致したのだ。
この結果が示しているのは、「99人の市民が特殊だった」のではなく、「十分な情報と議論の時間を与えられれば、普通の市民は国民全体の判断を先取りできる」ということだ。
同性婚の合法化も同じプロセスを経ている。2012年に設置された憲法会議(Constitutional Convention)の提言に基づき、2015年の国民投票で承認された。政治家が数十年にわたって回避し続けた問題を、くじ引きで選ばれた普通の市民が突破口を開いた。
なぜ政治家にはできなかったことが、99人の「素人」にはできたのか。理由は単純だ。政治家には「次の選挙」がある。有権者の反感を買えば落選する。だから、国論を二分する問題には触れたくない。一方、くじ引きで選ばれた市民には再選の心配がない。純粋に「何が正しいか」だけを考えればよい。この構造的な違いが、議論の質を根本的に変えた。
もう一つ見逃せないのは、市民会議が「対話」の場だったということだ。選挙戦のように敵を攻撃する必要がない。相手を「論破」する必要もない。目の前に座っている人と、同じ問題について一緒に考える。この環境が、参加者の中にあった思い込みや偏見を少しずつ溶かしていった。参加者の証言によれば、最も印象的だったのは、中絶を経験した女性たちの個人的な証言を直接聞いたセッションだったという。統計やデータでは動かなかった人の心が、一人の人間の声で動いた。
フランスの150人——成果と限界の両面
2019年、フランスのマクロン大統領は「気候市民会議(Convention Citoyenne pour le Climat)」を設置した。背景には、炭素税への抗議として全国に広がった「黄色いベスト運動」があった。環境政策と社会正義の両立という、政府が正面から取り組めなかった難題を、市民に委ねたのだ。
25万件の電話番号をランダムに抽出し、性別、年齢、社会経済的地位、学歴、都市・農村の別、地域の6つの軸で層化抽出を行い、150人の市民が選ばれた。彼らは2019年10月から2020年6月まで、7回の週末セッション(途中COVID-19による中断あり)を経て、149の政策提言をまとめた460ページの報告書を採択した。高速道路の速度制限引き下げ、建物の断熱改修義務化、国内線航空便の制限、エコサイド(環境破壊犯罪)の刑法への導入など、政治家が選挙を気にして提案できないような大胆な内容が含まれていた。
ただし、この事例は限界も露呈させた。マクロン大統領は当初「フィルターなしで」提言を実行すると約束したが、最終的に完全に採用されたのは約20%にとどまり、修正を加えた形での採用が約40%だった。マクロン氏は「150人の市民が書いたからといって、それが聖書やコーランではない」と発言し、市民会議メンバーとの間に溝が生じた。
この経験は重要な教訓を残した。くじ引き市民会議が良い提言を出しても、それを実行する政治的意志がなければ意味がない。提言の「拘束力」をどう設計するかが、制度の成否を分ける。一部の市民会議メンバーは「Les 150」という団体を結成し、提言の実行を求めるアドボカシー活動を続けた。市民が一度「当事者」になると、簡単には元の傍観者には戻らない。これ自体が、熟議プロセスの副産物としての市民的エネルギーだと言える。
研究者たちの事後検証も興味深い。150人の市民は5つのテーマ別グループ(食、住居、労働・産業、移動、消費)に分かれて議論したが、グループ間の情報共有が不十分で、自分が議論していない分野の提言についても投票しなければならなかった。全体会議の時間も後半に集中し、十分な熟議が行われたとは言い切れない部分もあった。制度の理念がどれだけ優れていても、運営の細部がその成否を左右する。
ベルギー・オストベルギエン——世界初の「常設型」
アイルランドやフランスの市民会議は、特定の問題に対する「一回限り」のプロセスだった。これを「常設の制度」にしたのが、ベルギーのドイツ語共同体(オストベルギエン、人口約8万人)だ。
2019年、同地域の議会は全会一致で「市民対話常設制度」を法制化した。仕組みは二層構造になっている。まず、過去の市民会議経験者からくじ引きで選ばれた24人の「市民評議会(Bürgerrat)」が常設され、18ヶ月の任期で6ヶ月ごとに3分の1が入れ替わる。市民評議会は、議題の選定と市民会議の招集を担う。次に、選ばれた議題ごとに25〜50人の「市民会議」がくじ引きで編成され、3〜4ヶ月かけて提言をまとめる。
注目すべきは、議題設定権が議会ではなく市民の手にあるという点だ。政治家が避けたいテーマでも、市民が必要だと判断すれば会議が開かれる。提言に法的拘束力はないが、議会は提言に対して回答する義務があり、採用しない場合は理由を書面で説明しなければならない。
小規模な地域だからこそ可能だったという見方もあるが、このモデルはパリやブリュッセルにも波及しており、大規模な自治体での適用可能性が検証されつつある。2019年の制度化から5年が経ち、研究者たちの中間評価では、「常設(permanent)」よりも「進化する(evolving)」という表現の方がふさわしいとされている。初期には議会に提出された提言が曖昧すぎて法制化できないという問題が生じたが、市民が提言の根拠を詳述するよう改善が加えられた。制度は走りながら修正されている。完成形が最初からあるわけではない。
「くじ引きで選ばれた人がバカだったら?」——最大の懸念を検証する
くじ引き民主主義に対する最も直感的な反論は、「選ばれた人が無能だったり過激だったりしたらどうするのか」というものだ。SNSのタイムラインを見ていると、この不安はもっともに感じられる。
だが、ここには認知バイアスが働いている。SNS上で目立つのは、全体の極めて小さな割合を占める「ノイジー・マイノリティ」だ。攻撃的な投稿、陰謀論、扇情的な主張——これらがアルゴリズムによって増幅されるため、あたかも社会の多数派がそうであるかのような印象を受ける。怒りや恐怖を煽るコンテンツはエンゲージメントが高く、プラットフォームにとって収益性が高いため、優先的に表示される。私たちがSNSで見ている「世論」は、アルゴリズムが編集した世論であり、実際の世論ではない。
住民台帳から統計的に抽出された集団の構成は、SNSの住人とはまったく異なる。SNSをやっていない人、アカウントを持っていても投稿しない人、政治に特段の関心がない人——こうした「静かな多数派」がくじ引きでは正当に代表される。
統計学の「大数の法則」が効く。100人から200人規模でくじ引きを行い、性別・年齢・学歴・地域などで層化抽出すれば、極端な人物ばかりが集まる確率は事実上ゼロに近い。そして仮に一人二人の極端な人物が混じったとしても、熟議のプロセスがその影響を中和する。
市民会議では、プロのファシリテーターが小グループの議論を運営する。声の大きい人間が議論を独占しないよう介入し、発言の少ない参加者に話を振る。最終的な投票は秘密投票で行われるため、同調圧力も働きにくい。アイルランドの市民会議では、最終投票で少数派だった意見も記録・公開された。
さらに興味深いのは、「同じ人間でも環境によって振る舞いが変わる」という点だ。SNSは匿名性と140字の制約が極端な発言を助長する構造を持っている。一方、実名で顔を合わせ、公的な責任を与えられ、専門家から丁寧な説明を受ける環境では、人は驚くほど真剣に、理性的に議論する。アイルランドの参加者が5ヶ月間にわたって毎週末集まり、賛否両方の専門家の話を聞き、個人の証言に耳を傾けた末に投票した——その過程と、SNSで30秒で書き込むリプライを同列に論じることはできない。
本当のリスクは「バカ」ではなく「操縦」
くじ引き民主主義の実務上の最大リスクは、参加者の知的水準ではない。事務局による「アジェンダ支配」——つまり、資料の選定と専門家の人選を通じて、結論を誘導されるリスクだ。
考えてみてほしい。市民会議の参加者は素人だ。彼らが判断するための材料——資料、データ、専門家の証言——は、誰かが用意する必要がある。その「誰か」が意図的に偏った情報を提供すれば、結論は容易に操作できる。
だからこそ、成功している事例ほど、この問題に対する制度的な歯止めを重視している。英国の気候市民会議(Climate Assembly UK)では、運営主体の独立性が明示され、情報提供は賛否双方の専門家から行われた。フランスの気候市民会議では、15人のガバナンス委員会(政府、シンクタンク、労働組合、企業、学識者の代表)に加え、3人の独立した「保証人」が中立性を監視した。約40人の研究者がオブザーバーとして会議にアクセスを許可され、プロセスの検証を行った。
透明性も鍵になる。資料の全面公開、議事録の記録、セッションの一部公開(フランスではYouTubeやTwitchで配信された)。これらは市民会議が「密室の裏取引」にならないための最低条件だ。
もう一つのリスクは買収やロビー活動だ。少人数の市民に大きな権限が集中すれば、利益集団がターゲットにしやすくなる。この対策としては、利益相反のルール厳格化、外部接触の記録義務、連絡窓口の一本化といった制度設計が提案されている。
「全面置換」ではなく「ハイブリッド」——現実的な導入形態
ここまで読んで、「選挙を廃止してくじ引きにしろ」と言いたいわけではないことは、おそらく伝わっていると思う。現実的に議論されているのは、選挙で選ばれた議会と、くじ引きで構成された市民会議の「併存」だ。
選挙で選ばれた政治家には、専門性、継続性、そして「次の選挙で落選する」という形の責任がある。この「落選のリスク」は、政治家の行動を制約する強力なブレーキだ。無茶な政策を打てば有権者に罰せられる。くじ引き市民にはこの緊張感がない。任期が終われば普通の市民に戻るだけだ。これは「やり逃げ」を可能にするリスクでもある。
一方で、「落選のリスク」は別の歪みも生む。政治家は有権者に嫌われることを恐れるあまり、必要だが不人気な政策——年金の支給年齢引き上げ、原発の廃棄物処理場の選定、増税——を先送りし続ける。目の前の選挙に勝つことと、20年後の国にとって正しいことは、しばしば矛盾する。くじ引き市民にはこの矛盾がない。だからこそ、「政治家が決められない問題」を委ねる先として機能しうる。お互いの欠点を補う関係が成り立つのだ。
具体的なモデルとしては、以下のような形が検討されている。
一つは、議題設定と提言を市民会議が担い、立法と執行は選挙議会が担う形。オストベルギエンのモデルがこれに近い。もう一つは、特定のテーマ(原発政策、年金改革、憲法改正など、政治家が選挙を気にして決められない長期的課題)だけを市民会議に委ねる形。アイルランドのモデルがこれにあたる。さらに、参議院のような「第二院」をくじ引き市民で構成し、衆議院のチェック機能を持たせるという、より大胆な構想もある。
いずれにせよ、共通しているのは「市民会議に核ボタンは渡さない」という設計原則だ。権限を段階化し、提言→議会審議→必要に応じて国民投票、という「二段階認証」を組み込むことで、暴走のリスクを抑える。
日本での導入可能性——何が障壁になるか
日本でくじ引き民主主義を導入するとしたら、何が壁になるだろうか。
制度面では、日本国憲法が「国権の最高機関」を国会と定めている以上、くじ引き市民会議に法的拘束力のある決定権を与えることは憲法改正なしには難しい。ベルギーのオストベルギエンでも同じ制約があり、市民会議の提言は「勧告」にとどまっている。ただし、議会が提言を無視できないよう「回答義務」を課すことは、現行法の範囲でも可能だろう。
文化面では、「お上が決める」ことへの受容性が高い日本社会で、「普通の市民が政策を議論する」ことへの抵抗感があるかもしれない。だが逆に、裁判員制度が2009年に導入され、定着しつつあるという事実は、日本社会がくじ引きによる公的参加を受け入れる素地を持っていることを示唆している。
最も現実的な入口は、地方自治体レベルだろう。たとえば、自治体の予算の一部の使途を市民会議に委ねる、あるいは特定の政策課題(公共施設の統廃合、都市計画など)について市民会議の提言を議会が審議する義務を条例で定める、といった形であれば、比較的小さなリスクで試行できる。
実際、日本でも小規模な試みは存在する。各地の自治体で開催されている「市民討議会(プラーヌンクスツェレ方式)」は、無作為抽出された市民が特定のテーマについて議論する仕組みだ。ただし、その多くは一日限りのイベントであり、提言に対する議会の応答義務もない。オストベルギエンのような常設型への道のりはまだ遠い。
もう一つ、日本固有の問題がある。「参加したくない」という市民の意識だ。くじ引きで招待状を送っても、実際に参加するのはごく一部にとどまる可能性が高い。フランスの気候市民会議でも、25万件の電話番号から最終的に参加したのは150人だ。「当たったけど面倒だから行かない」という人が多ければ、結局「政治に関心の高い層」だけが集まることになり、代表性が損なわれる。報酬の支払い、参加しやすい日程設定、託児サービスの提供など、参加障壁を下げるための工夫が不可欠になる。
選挙を超えて考える
選挙は民主主義の唯一の形態ではないし、歴史的にもそうではなかった。選挙が民主主義と同義だという思い込みは、近代以降に形成されたものにすぎない。
くじ引き民主主義は万能薬ではない。アジェンダ支配のリスク、責任の所在の曖昧さ、専門性の不足、規模の拡大に伴う困難——課題は山積している。フランスの気候市民会議が示したように、良い提言が出ても政治的意志がなければ実行されない。制度設計を誤れば、「市民参加の体裁を取った権力の正当化装置」になりかねない。
それでも、この制度が持つ可能性は無視できない。アイルランドでは、99人の市民が数十年の政治的膠着を打ち破った。フランスでは、150人の市民が政治家には提案できなかった大胆な政策パッケージをまとめた。オストベルギエンでは、世界初の常設型市民評議会が5年間にわたり運用されている。OECDが「熟議の波(deliberative wave)」と呼ぶこの潮流は、1980年代から徐々に形成され、2010年以降加速している。
「有権者は愚かだ」「国民は何も考えていない」——選挙のたびに繰り返されるこの嘆きに対して、くじ引き民主主義の実践者たちが出した答えは、意外なほどシンプルだ。人は、適切な情報と十分な時間と、真剣に議論する場を与えられれば、驚くほどまともな判断をする。問題は人間の側ではなく、人間に「考える機会」を与えない制度の側にある。
選挙を否定する必要はない。だが、選挙だけで民主主義が完結するという前提は、そろそろ疑ってみてもいいのかもしれない。数年に一度、候補者の名前を一つ書く。それだけが「政治参加」なのだとしたら、それは市民に与えられた権利としてあまりに貧弱ではないか。くじ引き民主主義は、その隙間を埋める一つの方法を提示している。完璧ではない。だが、少なくとも「考える場」を制度として保証するという点で、現状の選挙制度が提供していないものを補う可能性がある。
※本稿で引用したデータは主にOECD "Innovative Citizen Participation and New Democratic Institutions"(2020年)および同データベース2023年更新版、Involve Foundation、Democracy International、各市民会議の公式記録に基づく。くじ引き民主主義の概念的背景についてはDavid Van Reybrouck著 "Against Elections: The Case for Democracy"(2016年)を参照した。
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