日本が治安がいいのは日本だからか?~英国もそう思ってた時期があった~
「日本は治安がいい」――これは世界中で広く共有されている認識だ。外国人観光客が財布を落としても戻ってくる、深夜に女性が一人で歩ける、自動販売機が路上に置かれている。こうしたエピソードは日本の治安の良さを象徴するものとして繰り返し語られる。
では、この治安の良さは何によるものなのか。しばしば「日本人の民族性」や「文化」による説明が提示される。しかし、この説明は実証的なデータと整合的だろうか。
日本は昔から安全だったのか
もし民族性や文化が治安を決定するなら、日本は昔からずっと安全だったはずではないか。日本人の遺伝子や文化が治安を決めるのであれば、戦後も、高度成長期も、一貫して低犯罪率であるべきだ。
では、データは何を示しているのか。
殺人認知件数の長期推移(1946-2021年)
主要年次の殺人認知件数と人口10万人あたり発生率:
- 昭和21年(1946年):1,803件(人口10万人あたり約2.5)
- 昭和29年(1954年):3,081件(同 約3.5)【戦後ピーク】
- 昭和30年代:2,500件前後で推移
- 昭和40年(1965年):2,519件(同 約2.6)
- 昭和48年(1973年):2,125件(同 約1.9)
- 昭和55年(1980年):1,684件(同 約1.4)
- 平成元年(1989年):1,308件(同 約1.1)
- 平成14年(2002年):1,396件(同 約1.1)
- 令和元年(2019年):950件(同 約0.8)
- 令和3年(2021年):874件(同 約0.7)【戦後最少】
観察
- 戦後直後から1950年代にかけて殺人は増加し、1954年にピークに達した
- その後、1960年代から1980年代にかけて段階的に減少
- 1990年代から2000年代初頭は横ばい
- 2000年代中盤以降、再び顕著な減少
人口10万人あたりで見ると、1954年は約3.5、2021年は約0.7。つまり1950年代の日本は、現在の約5倍も殺人が多い社会だった。
同じ日本人が、なぜ1950年代には現在の5倍も殺人を犯していたのか。民族性が治安を決めるなら、この変動をどう説明するのか。
刑法犯全体の長期推移(1946-2024年)
主要年次の刑法犯認知件数と人口10万人あたり発生率:
- 昭和21年(1946年):約91万件(人口10万人あたり約1,250件)
- 昭和23年(1948年):約166万件(同 約2,100件)【戦後直後ピーク】
- 昭和30年(1955年):約146万件(同 約1,630件)
- 昭和40年(1965年):約127万件(同 約1,300件)
- 昭和48年(1973年):約120万件(同 約1,100件)
- 昭和63年(1988年):約163万件(同 約1,330件)
- 平成8年(1996年):約183万件(同 約1,460件)
- 平成14年(2002年):約285万件(同 約2,240件)【戦後最多】
- 平成23年(2011年):約154万件(同 約1,210件)
- 令和3年(2021年):約57万件(同 約450件)【戦後最少】
- 令和6年(2024年):約74万件(同 約590件)【3年連続増加】
観察
人口比で見ると、戦後直後の犯罪発生率は現在の約4倍に達していた。さらに注目すべきは、犯罪率が一貫して低下してきたわけではなく、二つの高犯罪期を経験している点だ:
第一期:戦後直後(1946-1955年頃)
- 1948年にピーク(人口10万人あたり約2,100件)
- 敗戦直後の混乱、物資不足、復員軍人の大量帰還
第二期:1990年代後半-2000年代初頭
- 2002年にピーク(人口10万人あたり約2,240件)
- バブル崩壊後の長期不況、雇用不安、格差拡大
- 注:この時期は統計の取り方の変更(被害届の積極的受理方針)も影響している可能性
つまり、日本の治安は「戦後から現在にかけて単調に改善してきた」のではなく、高犯罪率の時期を二度経験した上で、そこから大きく改善した、という経路をたどっている。
戦前期のデータ(参考)
利用可能なデータは限定的だが、戦前期についても一部の記録が残っている:
- 大正期から昭和初期:刑法犯認知件数は人口比で戦後初期よりやや低い水準
- ただし、統計の信頼性、検挙体制、犯罪の定義が戦後と異なるため単純比較は困難
- 戦時中(1940年代前半):統計が不完全で評価困難
データの限界と注意点
- 認知件数の定義変更:2000年前後に警察の被害届受理方針が変更され、特に窃盗・器物損壊の認知件数が増加した可能性
- 暗数の変化:届出率は時代とともに変化(現代の方が軽微な犯罪も届出する傾向)
- 犯罪の質的変化:特殊詐欺など新しい犯罪類型の出現
それでも、殺人のような重大犯罪でも5倍の変動が見られることは、民族性・文化説では説明困難な構造的変化を示唆している。
戦後から高度成長期の実態
まず一度目の高犯罪期である敗戦直後の日本を想像してほしい。 極端な物不足、ハイパーインフレ、復員軍人の大量帰還。 1948年の刑法犯認知件数は約160万件に達し、 窃盗や強盗といった財産犯が社会を席巻していた。
高度成長期に入っても、治安が一気に安定したわけではない。 暴力団などの組織犯罪が公然と活動し、 暴力団員は殺人検挙人員の約23%を占めていた(平成11年)。 安保闘争や全共闘運動では、火炎瓶やゲバ棒が都市部で使用されるなど、 社会的緊張は高い水準にあった。
そして二度目の高犯罪期が、1990年代後半から2000年代初頭である。 平成14年(2002年)には刑法犯認知件数が約285万件と戦後最多を記録し、 人口比でも戦後直後に匹敵する水準に達した。
これが「昔の日本」の現実だ。 では、なぜ2002年のピークを境に、日本の治安は急速に改善し、 現在のような低犯罪率に至ったのか。
現在の治安を支える要素
要素1:技術革新と検挙体制の変化
この要素のポイントは単純だ。 犯罪を思いとどまらせる上で重要なのは、 実際に何%が検挙されたかという事後的な数字だけではなく、 「捕まる可能性が高い」と人々が感じる環境が形成されているかどうかである。
犯罪経済学では、人は犯罪の便益と費用を比較して意思決定するという前提が置かれる。 このとき、費用の中で特に重要なのが「捕まる確率」だ。
戦後から高度成長期の日本には、 この「捕まる確率」を高める技術的・制度的基盤がほとんど存在しなかった。
当時、存在しなかった主なもの:
- 防犯カメラの広域ネットワーク
- DNA鑑定技術(本格導入は1990年代以降)
- Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置)
- 携帯電話による即時通報
- 高度に体系化された科学捜査
これらの技術が普及したことで、 犯罪者にとっての「捕まるリスク」は大きく変化したと考えられる。 同じ人間でも、捕まる確率が10%と感じる社会と、 90%と感じる社会では、犯罪行動は大きく異なる。
もっとも、この説明に対しては、 当然ながら次のような疑問が生じる。
「実際の統計を見ると、1990年代から2000年代初頭にかけて、 刑法犯全体の検挙率はむしろ低下している。 検挙率が上がっていないのであれば、 技術進歩による犯罪抑止という説明は成り立たないのではないか」
この疑問はもっともであり、本論の妥当性を評価する上で避けて通れない。 そこで、次に検挙率データを整理した上で、 検挙率と犯罪抑止の関係を区別して確認しておきたい。
- 平成4〜10年頃:40%前後で推移 → 平成13年:19.8%(戦後最低、20%割れ)
- 令和3年(2021年):46.6%(回復傾向)
- 殺人:100.9(※前年以前認知分の検挙を含むため100%超があり得る)
- 強盗:99.3
- 重要犯罪 計:93.4
- 窃盗犯:42.2(うち自転車盗:8.0)
この整理から分かるのは、 検挙率という数字が一貫して上昇していなくても、 それだけで技術進歩による犯罪抑止効果を否定することはできない、という点である。
2000年代前半は刑法犯認知件数が急増し、警察の処理能力を上回った結果として、 検挙率が低下しやすい局面だった。一方で、その後の犯罪減少局面では、 防犯カメラの普及や科学捜査の高度化により、 「捕まる可能性が高い社会環境」が形成されていった。
重要なのは、潜在的な加害者がどの程度「捕まるリスク」を感じているかであり、 この主観的確率は、検挙率という事後的な指標には必ずしも直接反映されない。 技術進歩の効果は、検挙率の単純な上昇ではなく、 犯罪発生そのものの抑制という形で現れた可能性がある。
要素2:財政支出による所得安定
社会保障給付費の推移:
- 昭和25年(1950年):1,261億円
- 平成元年(1989年):約47兆円
- 令和5年度(2023年):135.5兆円(GDP比22.76%)
- 令和7年度(予算ベース):140.7兆円
内訳(令和5年度):
- 医療:45.6兆円(33.6%)
- 年金:56.4兆円(41.6%)
- 福祉その他:33.5兆円(24.7%)
これらの社会保障給付は何のためにあるのか。高齢者福祉?医療?もちろんそれもあるが、経済学的には、これが生存型犯罪を抑制している可能性も指摘されている。
生活保護、失業給付、年金がなければ、所得を失った人々はどうやって生きていくのか。
失業率と犯罪率の関係
大阪大学の大竹文雄・小原美紀による実証研究(2010年)は、以下を報告した。
- 失業率と犯罪率(窃盗)の相関係数:0.94(1997-2007年)
- 失業率1%上昇で窃盗発生率が統計的に有意に増加
- 貧困率の影響は失業率以上に大きい
相関係数0.94。これはほぼ完全な相関と言っていいレベルだ。ただし、これは相関関係であり、因果関係が完全に証明されているわけではない点には注意されたし。
また、法務省の統計によれば、2019年の新受刑者のうち68.3%が犯行時無職だった。これらのデータは、雇用・所得と犯罪の間に強い関連があることを示唆している。
要素3:制度設計
日本の治安を支える制度的要因として、厳格な銃器規制、薬物規制、高い就学率、都市の均質性(極端なスラムの不在)などが挙げられる。
ただし、これらの制度を維持・運用するには財政余力が必要だという点を忘れてはならない。
治安維持のコスト
では、日本の財政状況はどうか。
政府債務残高の推移:
- 平成6年(1994年):GDP比54.7%
- 平成21年(2009年):GDP比約170%
- 令和6年(2024年):GDP比236%(先進国中最高水準)
- 令和7年度末見込み:普通国債残高1,129兆円
日本の政府総債務残高対GDP比は、G7諸国の中で最も高い水準にある。
厚生労働白書(平成29年版)によれば、社会保障財源の約42%が公費で賄われている。そして、その公費の多くは税収では足りず、国債発行で補填されている。
つまり、現在の日本の治安は、将来世代の負担を前提として維持されている側面がある。
何が変わったのか――金利上昇という新たな脅威
2024年、日本銀行は異次元緩和政策を転換し、マイナス金利政策を解除した。これは何を意味するのか。
長期金利(10年国債利回り)の推移:
- 2016年:マイナス圏に突入(-0.3%前後)
- 2020年:0%前後
- 2023年:0.2~0.4%
- 2024年:0.7~1.0%前後
- 2025年以降:さらなる上昇圧力
金利上昇の影響は段階的・累積的に現れる
「金利が1%上昇すれば、1,000兆円の国債残高に対して年間10兆円の利払い増」という単純計算をよく見かけるが、これは誤解を招く。実際の影響はより複雑だ。
なぜ即座に10兆円増えないのか:
- 既発債の金利は固定されている(満期まで変わらない)
- 新しい金利が適用されるのは、新規発行債と借り換え債のみ
- 日本国債の平均残存期間は約9年
- 毎年の借り換え規模は約100~150兆円程度
実際の影響の時間軸:
- 初年度:借り換え分(約100~150兆円)に新金利適用 → 利払い費増加は約1~1.5兆円
- 累積的影響:毎年借り換えが進むにつれ、高金利の国債比率が上昇
- 9年程度で全体に波及:最終的には年間10兆円規模の利払い増の可能性
つまり、金利上昇の影響は「じわじわと効いてくる」。初年度は小さく見えるが、5年後、10年後には財政を確実に圧迫する。
より深刻なシナリオ:金利>成長率
金利上昇が経済成長を伴えば、名目GDP成長率が金利を上回り、債務対GDP比は改善しうる。しかし、日本の場合はどうか。
- 名目GDP成長率(2010年代平均):約1%
- 人口減少・高齢化による潜在成長率の低下
- 金利が2~3%に上昇すれば、「金利>成長率」の状態に陥る可能性
この状態では、債務残高は雪だるま式に膨張する。利払い費を賄うために新たな国債を発行し、それがまた利払い費を増やすという悪循環だ。
財政余地の急速な喪失
令和7年度予算における国債費(既発債の利払い+償還費)は約27兆円。
増加分は、どこから捻出するのか。社会保障費か、警察予算か、教育費か。いずれにせよ、治安を支える財政基盤は確実に侵食される。
英国の事例:治安は変動する
治安と経済・制度の関係は、日本に特有の現象ではない。英国の事例を見てみよう。
英国も「文化説明」が好まれた国だった
英国もかつては「法の支配」「紳士の国」として、文化的な説明が好まれる国だった。しかし、実際の犯罪統計はどうだったのか。
1950年代~1960年代:低犯罪率の時期
この時期、英国の犯罪率は戦後最低水準にあった。住宅侵入・暴力犯罪ともに低く、「Bobby on the beat(徒歩警官)」が機能していた時代だ。
この時期の社会経済的背景はどうだったか。
- 実質賃金が安定的に上昇
- 完全雇用に近い労働市場
- 公営住宅の大量供給
- 地方自治体の財政余力が大きい
- 警察官数(人口比)が高水準
つまり、社会的排除が小さかった。これは「民族性」によるものか、それとも経済・制度によるものか。少なくともデータは、経済・制度要因との関連を示唆している。
1970年代~1990年代前半:犯罪率の上昇
1960年代後半から犯罪率は明確な上昇トレンドに転じた。
1970年代~1980年代の状況:
- 若年人口の増加(ベビーブーム世代)
- 都市化・自動車普及による機会犯罪の増加
- 高インフレと失業率の上昇
- 製造業の急縮小
- 地域間格差の固定化
結果:
- 都市部で窃盗・強盗が増加
- 1981年ブリクストン暴動など警察と住民の衝突
- 1992-1995年に刑法犯が歴史的ピークに達する
もし英国人の「民族性」が治安を決めるなら、なぜ同じ民族で犯罪率が3~4倍も変動したのか。
2000年代以降:犯罪率の低下
2000年代に入ると、犯罪率は大幅に低下した。何が変わったのか。
- 警察官の増員
- CCTVカメラの大規模普及
- 車両防犯技術の進歩
- 地域ポリシングの強化
結果、犯罪率は1990年代のピークから50%以上低下した。
2010年代:緊縮財政と治安への影響
2010年代、英国政府は緊縮財政政策を実施した。
緊縮財政の内容:
- 警察官数の削減
- 地方自治体予算の大幅カット
- 青少年支援・地域サービスの縮小
観測された変化:
- 窃盗・強盗・刃物犯罪の増加
- 若年層の再犯率上昇
- 地域間の治安格差拡大
財政支出の削減と犯罪率の上昇が同時期に観測されている。これは、検挙確率の低下と予防機能の弱体化が犯罪率に影響を与えた可能性を示唆している。
2020年代:生活コスト危機
2020年代、英国は生活コスト危機に直面している。
- 実質可処分所得の低下
- 光熱費・家賃の急騰
- フードバンク利用者の急増
この局面で増えたのは何か。万引き、詐欺、低リスク・低コストの財産犯だ。これは日本の戦後直後に見られた「生存型犯罪」の増加と類似した構造を持っている可能性がある。
英国の事例が示すこと
英国の長期的な犯罪統計は何を示しているのか。
- 同一民族・同一法制度の下でも、経済状況と制度要因の変化により、犯罪率は3~4倍変動する
- 治安の改善・悪化は、失業、都市構造、財政、社会保障といった可変的な要因と強く関連している
- 「文化」や「民族性」だけでは、これらの構造的変化を十分に説明できない
「移民が増えたから」という説明の検証
英国の犯罪率上昇について、「移民が増えたから」という説明を耳にすることがある。この説明は妥当だろうか。データを見てみよう。
1950年代~1960年代:移民受け入れ開始期
英国は1950年代から移民を受け入れていた。1948年のBritish Nationality Actにより、英連邦市民の移住が始まり、いわゆる「Windrush世代」と呼ばれるカリブ海諸国からの移民が到着した。1950年代~60年代には南アジアからの移民も増加した。
しかし、この時期の英国の犯罪率はどうだったか。前述の通り、戦後最低水準だった。つまり、移民受け入れ期に犯罪率は低かった。
1970年代~1990年代:犯罪率上昇と移民数の関係
犯罪率が上昇した1970年代~1990年代、移民数はどう推移していたか。実は、この時期の移民純流入数は比較的抑制されていた。1960年代後半から移民規制が強化され、1971年Immigration Actでさらに制限された。
一方で、この時期に何が起きていたか。失業率の急上昇、製造業の縮小、地域間格差の拡大だ。犯罪率の上昇は、移民数の変化よりも、これらの経済要因との相関が強い。
2000年代以降:移民増加と犯罪率低下の並存
ここが重要だ。2004年のEU拡大により、東欧諸国からの移民が大幅に増加した。特にポーランドからの移民が顕著だった。2000年代は英国史上最大規模の移民流入期の一つと言える。
では、この時期の犯罪率はどうだったか。前述の通り、1990年代のピークから50%以上低下した。移民が増加した時期に、犯罪率は大幅に低下したのだ。
移民と犯罪:研究の知見
移民と犯罪の関係について、多くの実証研究が行われている。結果は複雑だが、いくつかの知見がある。
- 移民の犯罪率は、経済統合の度合い、世代、出身国、受け入れ地域の労働市場の状況などに依存する
- 第一世代移民の犯罪率は必ずしも高くなく、むしろ低い場合もある
- 重要なのは、移民の有無ではなく、社会的排除、失業、貧困といった要因
つまり、「移民が増えると犯罪が増える」という単純な因果関係は、データで支持されていない。むしろ、移民であれ非移民であれ、失業や貧困といった経済的要因が犯罪と関連している可能性が高い。
日本への含意
日本でも将来、移民受け入れが拡大する可能性がある。その際、「移民が増えると治安が悪化する」という懸念が表明されるかもしれない。
しかし、英国の事例が示すのは、治安を決めるのは移民の有無ではなく、経済統合、雇用機会、セーフティネット、警察・地域サービスといった要因だということだ。移民を受け入れつつ治安を維持している国は存在する。重要なのは、これらの要因をどう管理するかだ。
「民族性」説明の問題点
では、「民族性」による説明にはどのような問題があるのか。
問い1:なぜ同じ民族で犯罪率が10倍も変動したのか
1950年代の日本人と2020年代の日本人は、遺伝的にほとんど変わらない。同じ民族だ。なぜ殺人率が10倍も違うのか。
民族性が説明変数なら、それは時間を通じて一定のはずだ。しかし、データは明確に変動している。
問い2:経済ショックで犯罪が増えるのはなぜか
2024年の刑法犯認知件数は737,679件で、前年比+4.9%(3年連続増加)だ。長期的には減少傾向だったが、ここ数年は増加に転じている。
増えているのは特殊詐欺や通信利用型詐欺といった、経済的動機による犯罪だ。
民族性が治安を決めるなら、なぜ景気が悪化すると犯罪が増えるのか。日本人の民族性は景気と連動して変化するのか。
問い3:政策的に何の示唆も得られない
民族性による説明の問題は、政策的に検証不能で、何の改善策も導出できないことだ。
治安を支えるのが、検挙確率、所得安定、再分配、教育、地域サービスといった可変要因だとすれば、それらを改善することで治安を維持できる。しかし「民族性」に帰せば、議論はそこで止まる。
国際的な実証研究の知見
経済状況の悪化が治安を悪化させるという関連は、多くの国際的な実証研究で報告されている。ただし、これらの多くは相関関係や統計的な関連を示すものであり、単純な因果関係として解釈するには注意が必要だ。
経路1:所得・雇用ショックと財産犯
失業や所得低下が財産犯と関連することは、米国の古典的研究から近年の労働市場研究まで、複数国・複数手法で報告されている。景気後退期に労働市場に参入したコホートは、その後の人生で逮捕確率が上がるという「傷跡効果」も報告されている。
経路2:セーフティネットの弱体化と暴力犯罪
福祉国家の再分配機能と社会保障が、暴力犯罪を抑制する方向に働く可能性を示唆するマクロレベルの実証研究も存在する。財政逼迫によりセーフティネットが弱体化すると、治安悪化のリスクが高まる可能性がある。
経路3:地域・行政サービスの劣化
清掃、照明、公共空間管理、相談窓口、学校、福祉などの行政サービスが縮小すると、小さな無秩序が増加し、犯罪の温床が広がる可能性がある。これは「割れ窓理論」として知られる仮説だ。
日本の将来的リスク
では、日本は経済がひっ迫すれば治安が崩壊するのか。
答えは「必ずではないが、リスクは確実に上昇する」だ。
下支え要因は残る
日本には、経済が悪化しても治安を一定程度支える要因がある。
- 銃器規制などの制度要因
- 検挙・監視の技術基盤(検挙確率)
- 企業・家族・地域の非公式なセーフティネット
ただし、これらは財政・制度の維持とセットだ。財政が破綻すれば、警察の人員・装備も維持できなくなる。技術基盤も更新できなくなる。
悪化は形を変えて出る
経済ひっ迫が進むほど、治安悪化の圧力は強まる。ただし、悪化は凶悪犯罪の急増より先に、詐欺・窃盗・地域の軽微な無秩序として現れやすい。
実際、直近の犯罪増加がまさにその形(特殊詐欺の増加)に近い。
注視すべき指標
何が起きると危ないか。以下の指標を見ればよい。
- 低所得層の実質可処分所得
- 生活保護・住居喪失の動き
- 若年失業・非正規の質
- 特殊詐欺・サイバー詐欺の被害額
- 地方の行政サービス縮小(交番、福祉、学校、相談窓口)
これらが悪化すれば、治安も連動して悪化する可能性が高いと考えられる。
結論
現代日本の治安は、戦後の高犯罪期を経て形成された制度、財政支出による再分配と雇用安定、技術進歩による検挙確率の上昇という三要素と強く関連していると考えられる。このうち財政支出は国債に依存しており、将来的な成長率が低下すれば、治安維持コストの相対負担は上昇する。
英国の事例は、先進国においても経済・制度要因の変化により治安が大きく変動することを示している。同一民族の下でも、1950年代と1990年代では犯罪率が3~4倍変動した。この変動は、「文化」や「民族性」だけでは十分に説明できず、失業、都市構造、財政、社会保障といった可変的要因との強い関連が観測されている。
民族性による説明には三つの問題がある。同一民族内での大幅な犯罪率の変動を説明できない。経済ショックと犯罪率の強い相関を説明できない。政策議論として検証不能であり、具体的な改善策を導出できない。

コメント
コメントを投稿