GDPでは測れない富:平均寿命、治安、健康と機会費用

1. 問題設定:経済大国アメリカと「短い寿命」

アメリカは名目GDPにおいて世界最大の経済規模を有する一方で、平均寿命は他の先進諸国と比べて有意に低い。 近年のデータでは、アメリカの平均寿命はおよそ78年前後にとどまり、 日本や西欧諸国と比べて3〜7年程度短い水準にある。

GDPは国内で生み出された付加価値の総額であり、経済活動の「量」を測る指標である。 しかし、平均寿命のような健康アウトカムや、暴力、薬物依存、過剰な医療費負担による生活の余裕の欠如といった 「質」の側面を直接反映しない。 そのため、アメリカのようにGDPが大きいにもかかわらず、 健康・安全・余暇の面で他国より劣るという状況が生じうる。 本稿は、アメリカ合衆国の平均寿命の停滞・低下、治安悪化、健康問題と、GDPが捉えきれない機会費用の観点から、 「経済大国であっても必ずしも豊かな社会とは言えない」という問題を検討する。 主要な統計は、CDC、KFF、OECD、UNDP、UNODC、WHO、World Prison Brief、IMF、World Bank等の公的データに依拠する。 あわせて、日本・英国・フランス・ドイツ・中国との比較を行い、 GDP以外の指標が示す「豊かさの差」を多角的に可視化したい。

2. データで見る平均寿命と「豊かさ」指標のギャップ

2.1 平均寿命の概観

表1 主要国の平均寿命(出生時)
国・地域 平均寿命(歳) データ年 コメント
日本 84.7 2023年 世界でも最長クラスの寿命水準。
フランス 83.3 2023年 西欧の中でも高い水準。
英国 81.3 2023年 アメリカよりも約3年長い。
ドイツ 81.4 2023年 欧州平均に近い水準。
中国 78.0 2023年 近年大きく改善しているが、日欧よりやや短い。
アメリカ 78.4 2023年 他の高所得国より3〜6年程度短い。

出典:UNDP Human Development Report 2024/2025 (hdr.undp.org)、 CDC National Vital Statistics Reports 2024 (www.cdc.gov/nchs)、 World Bank World Development Indicators 2024 (databank.worldbank.org)

【COVID-19の影響】2020-2023年のパンデミック期間中、各国の平均寿命は一時的に低下した。 アメリカでは2021年に約76.4歳まで低下し、2023年時点で約78.4歳まで回復しているが、 依然としてパンデミック前(2019年約79歳)の水準には戻っていない。 国際比較においても、各国の感染状況・対策・回復度合いが異なるため、時系列での慎重な解釈が必要である。

2.2 若年・中年層での死亡率の高さ:国際比較

アメリカの平均寿命を大きく引き下げているのは、高齢期よりむしろ若年・中年層の死亡率である。 15〜49歳の死亡率は、他の高所得国平均と比べておよそ2倍以上とされ、 薬物過剰摂取、自殺、交通事故、暴力(特に銃)などが主な要因として挙げられている。

表2 主要国における15〜49歳の年齢層別死亡率(人口10万あたり・推計値)
15〜49歳
総合
15〜24歳 25〜34歳 35〜49歳 主な死因の特徴
日本 約60 約30 約50 約80 自殺、交通事故が主。暴力・薬物死は極めて少ない。
ドイツ 約75 約40 約65 約95 交通事故、自殺、心血管疾患。薬物死は限定的。
フランス 約80 約45 約70 約100 交通事故、自殺、がんが主。銃死亡は稀。
英国 約85 約50 約75 約105 薬物関連死が増加傾向だが、米国よりはるかに低い。
中国 約110 約55 約95 約140 交通事故、自殺、がん、労働災害。地域差が大きい。
アメリカ 約190 約95 約165 約240 薬物過剰摂取(最大の死因)、銃関連死(殺人・自殺)、 交通事故、肥満関連疾患。

出典:WHO Global Health Observatory 2021-2023 (www.who.int/data/gho)、 CDC WONDER Database 2023 (wonder.cdc.gov)、 Institute for Health Metrics and Evaluation (IHME) Global Burden of Disease Study 2021 (www.healthdata.org/gbd)、 OECD Health Statistics 2024 (www.oecd.org/health/health-data.htm)

【データの限界】

  • 年齢層別の死亡率は、各国の統計分類・集計方法により若干異なる。
  • 上記数値は複数のデータソースから算出した「概算値」であり、公式統計の直接引用ではない。
  • 死因分類(ICD-10コード)の適用方法が国により異なる場合がある。
  • 中国のデータは都市部と農村部で大きく異なり、全国平均には不確実性がある。

表2-補足 アメリカと比較国平均の死因別内訳(15〜49歳・人口10万あたり推計値)
死因カテゴリ アメリカ 日英独仏平均 差(倍率)
薬物過剰摂取 約55 約5 約11倍
銃関連死(殺人・自殺・事故) 約35 約0.5 約70倍
交通事故 約20 約15 約1.3倍
自殺(銃以外) 約15 約12 約1.3倍
その他暴力(銃以外) 約10 約2 約5倍
慢性疾患・その他 約55 約45 約1.2倍
合計 約190 約80 約2.4倍

出典:CDC National Center for Health Statistics 2023、IHME GBD 2021、 WHO mortality database 2022。死因カテゴリは分析のため簡略化されている。

この年齢層は労働市場における中心的な担い手であり、家庭形成や子育てを行う世代でもある。 したがって、この層の早期死亡は単に個人・家族の悲劇にとどまらず、 人的資本の喪失、労働供給の減少、税収の減少、社会保障負担の相対的増大といった マクロ経済的な損失をもたらす。

特に注目すべきは、薬物過剰摂取と銃関連死という「予防可能な死因」だけで、 アメリカは他の先進国より人口10万人あたり約90人も多く死亡している点である。 これは年間で約20万人の若年・中年層が、適切な政策介入があれば防げた可能性のある死因で 亡くなっていることを意味する。

【因果関係の留意点】死亡率が高いことと経済的損失の関係は双方向的である。 貧困・失業が薬物使用や犯罪を増加させる一方で、薬物依存や犯罪歴が就労を困難にするという 悪循環が存在する。本稿の分析は、こうした複雑な相互作用を単純化したモデルに基づいている。

2.3 日・英・仏・独・中・米の比較:寿命・HDI・医療費・GDP

表3 主要6カ国の寿命・HDI・医療費・GDPの比較(2023年データ)
平均寿命
(歳)
HDI
(値)
HDI
順位
医療費/GDP
(%)
GDP per capita
(PPP・千ドル)
日本 84.7 0.925 23位 10.9 約48
英国 81.3 0.946 13位 11.3 約54
フランス 83.3 0.920 26位 12.1 約55
ドイツ 81.4 0.959 5位 12.7 約64
中国 78.0 0.797 78位 5.5 約22
アメリカ 78.4 0.938 17位 16.6 約74

出典:

  • 平均寿命:UNDP Human Development Report 2024/2025 (hdr.undp.org)
  • HDI値・順位:UNDP Human Development Report 2024/2025
  • 医療費/GDP:OECD Health Statistics 2024 (stats.oecd.org)、WHO Global Health Expenditure Database 2023
  • GDP per capita (PPP):IMF World Economic Outlook October 2024 (www.imf.org/WEO)

表3から分かるように、アメリカは一人当たりGDP(PPP)では圧倒的に高所得であり、 医療費 / GDP も突出して高い。 にもかかわらず、平均寿命では日本・英国・フランス・ドイツに劣後し、 HDIでも英国・ドイツより低い順位にある。 この差が「GDPでは測れない富」の存在を示している。

2.4 治安・犯罪の国際比較

アメリカの「生活の質」を著しく低下させている要因の一つが、治安の悪さである。 殺人率、刑務所収容率、銃関連死亡率のいずれにおいても、アメリカは先進国の中で突出して高い水準にある。

表4 治安指標の国際比較(2021-2023年データ)
殺人率
(人口10万あたり)
刑務所収容率
(人口10万あたり)
銃関連死亡率
(人口10万あたり)
日本 0.23 36 <0.5
ドイツ 0.7 67 ~1.0
フランス 1.2 109 ~0.3
英国 1.1 146 0.25
中国 0.5 119 推計低い
アメリカ 5.8 541 14.0

出典:

  • 殺人率:UNODC Global Study on Homicide 2023 (www.unodc.org)、 各国の2021-2023年データ
  • 刑務所収容率:World Prison Brief 2023 (www.prisonstudies.org、 Institute for Crime & Justice Policy Research at Birkbeck, University of London)
  • 銃関連死亡率:CDC National Center for Injury Prevention and Control 2023、Small Arms Survey 2022

【データの年度に関する注意】

  • 殺人率:アメリカのFBI統計では2021年6.9→2022年6.3→2023年推計5.8と減少傾向。本稿では2023年の推計値を使用。
  • 刑務所収容率:アメリカは2022年時点で約541人/10万人(World Prison Brief)。州により大きく異なる(ルイジアナ州約680、マサチューセッツ州約160など)。
  • 銃関連死亡率:CDC統計では2023年に46,728人が銃関連で死亡(自殺約58%、殺人約38%、事故約2%)。

アメリカの殺人率は日本の約25倍、刑務所収容率は15倍にのぼる。 2023年には46,728人が銃関連で死亡し、そのうち約58%が自殺、38%が殺人であった。 銃関連死亡率14.0は、フランスの約47倍、ドイツの14倍という水準である。

特に注目すべきは、アメリカの刑務所人口が約180万人(2022年)に達し、 これは中国の公式数字(約169万人・2018年)を上回る規模である点である。 人口比では中国の約4倍の収容率となっており、 社会の「管理コスト」が極めて高いことを示している。

2.5 肥満率と食生活の国際比較

アメリカの健康問題を考える上で、肥満の蔓延は無視できない要因である。 成人肥満率は先進国の中で突出して高く、糖尿病・心血管疾患などの 慢性疾患の温床となっている。

表5 成人肥満率の国際比較(2022-2023年)
成人肥満率(%) 主な特徴
日本 4.9 世界最低水準。伝統的な食文化と適度な運動習慣。
中国 8.2 都市部で増加傾向だが、依然として低水準。
フランス 10.9 地中海式食生活により比較的低い。
ドイツ 23.6 欧州平均よりやや高い。
英国 28.7 欧州の中では高水準。
アメリカ 36.2〜42.9 先進国で最悪水準。重度肥満率9.4%。人種間格差も深刻(黒人50.9%、ヒスパニック46.9%、白人37.9%)。

出典:

【肥満率の定義と測定方法】アメリカの肥満率は調査方法により幅がある:

  • CDC NHANES 2017-2020:成人肥満率約41.9%(COVID-19前の最新データ)
  • CDC BRFSS 2022:州別で26.4%〜38.4%と大きく変動(最低:コロラド州、最高:ウェストバージニア州)
  • 人種別格差(CDC 2017-2020):非ヒスパニック系黒人50.9%、ヒスパニック系46.9%、非ヒスパニック系白人37.9%、非ヒスパニック系アジア系17.9%

アメリカ人は日本人の約7.4〜8.8倍肥満になりやすい。 さらに、非ヒスパニック系黒人の肥満率は50.9%で、白人の37.9%を大きく上回るなど、 人種間格差も深刻である。 肥満は糖尿病、心血管疾患、特定のがん、関節疾患などと強く関連しており、 医療費増大と労働生産性低下の主要因となっている。

2.6 健康寿命(HALE)のギャップ

平均寿命だけでなく、「健康に生きられる年数」も重要な指標である。 WHOが公表する健康寿命(Healthy Life Expectancy, HALE)は、 疾病や障害のない状態で生きられる年数を示す。

表6 平均寿命と健康寿命のギャップ(2019-2021年推計)
平均寿命
(歳)
健康寿命HALE
(歳)
ギャップ
(年)
備考
日本 84.7 ~74.1 ~10.6 世界最高水準の健康寿命。
フランス 83.3 ~72.1 ~11.2 健康的な食生活と医療制度。
ドイツ 81.4 ~70.9 ~10.5 良好な医療・福祉制度。
英国 81.3 ~70.1 ~11.2 NHS制度による普遍的アクセス。
中国 78.0 ~68.7 ~9.3 急速に改善中。
アメリカ 78.4 ~66.1 ~12.3 「生きているが健康でない」年数が長い。

出典:

【健康寿命の測定上の課題】

  • HALEは「障害なく生きられる年数」を推計する指標で、各国の自己申告調査や疾病統計に基づく。
  • 「障害」の定義や測定方法が国により異なるため、厳密な国際比較には限界がある。
  • WHOの最新HALE推計は2019年データに基づいており、COVID-19の影響は反映されていない。
  • 本稿の数値は複数研究からの推計値であり、公式値とは若干異なる場合がある。

アメリカの健康寿命は約66年で、平均寿命78.4年との差が約12年ある。 これは比較対象国の中で最も長く、 「生きているが健康ではない」期間が多いことを示している。 この期間は慢性疾患の管理、長期介護、医療費の負担が増大する時期であり、 本人のQOL低下だけでなく、社会全体のコスト増につながる。

3. 機会費用の視点から見た「失われた富」

3.1 機会費用とは何か

機会費用(opportunity cost)とは、ある選択を行った結果、 別の選択肢をとっていれば得られたであろう利益を指す。 国家レベルで見れば、本来なら教育、防災、子育て支援、インフラ整備などに投入できた財源が、 医療費や犯罪対応、薬物依存対策、刑務所維持などに吸収されている場合、 そこには巨額の機会費用が存在する。

GDPは、こうした「別の用途に使えたはずの資源」の価値をマイナスとして評価しない。 むしろ、医療費や刑務所運営費の増加は、そのまま経済活動の拡大としてGDPに加算される。 そのため、「社会問題が深刻化しているにもかかわらずGDPは増えている」という、 一見逆説的な状況が生まれる。

3.2 アメリカにおける機会費用の具体例

表7 アメリカで想定される主な機会費用の例
分野 現在の支出・損失の例 代替的な用途(得られたはずの富)
医療費 GDPの約16.6%が医療に支出されており、OECD平均(約9.2%)のほぼ1.8倍。 生活習慣病や救急医療、慢性疾患への対応に巨額のコスト。 予防医療、公衆衛生、教育、インフラ、気候変動対策、育児支援などに回せるはずだった資源。
薬物・アルコール関連 薬物過剰摂取やアルコール関連死の増加に伴う医療費、警察・司法コスト、 労働市場からの離脱による生産性の喪失。年間約10万人超が薬物過剰摂取で死亡。 リハビリ・メンタルヘルス・教育・地域コミュニティへの投資による人的資本の蓄積。
暴力・銃犯罪 銃による死傷者への医療費(推計28億ドル/年)、治療後の就労不能、警察・裁判・刑務所運営コストなど。 総経済コストは年間約5,570億ドルと推計される。 安全な都市空間、公共交通、教育・文化施設への投資による生活の質・生産性向上。
刑務所システム 約180万人が収監されており、州・連邦予算の大部分を占有。 受刑者1人あたり年間コストは州により異なるが、ニューヨーク州では約69,000ドル、全米平均約45,000ドル。 教育・職業訓練・コミュニティ支援への投資。受刑者の生涯所得損失の回避。
早期死亡・健康悪化 15〜49歳の高い死亡率、糖尿病・心疾患・肥満に伴う労働生産性低下。 健康寿命が約12年短いことによる長期介護コスト増。 長期就労・熟練の蓄積、世代間での知識移転、安定的な税収と社会保障の基盤。
肥満関連疾患 成人の36〜43%が肥満であり、糖尿病・心血管疾患・がんなどの医療費増。 労働生産性の低下、病欠・障害による経済損失。 予防医療、健康的な食環境整備、体育・スポーツ施設への投資。 生産年齢人口の健康維持による経済成長。

3.3 簡単な人的資本モデルによる機会費用の定式化

ここでは、平均寿命の短さがもたらす「人的資本の現在価値損失」を、 ごく単純なモデルで表現する。

3.3.1 ライフサイクル所得の現在価値

代表的な個人が、年齢0からT歳まで働くとする。 各年齢tにおける期待実質所得をE(t)、 その年齢まで生存している確率をS(t)、 実質割引率をrとすると、 ライフサイクル所得の現在価値PVは次のように書ける:

PV = Σt=0T [ E(t) × S(t) / (1 + r)t ]
  

ここで、平均寿命が長い国ではS(t)が高く、特に就労年齢帯(例えば25〜64歳)での生存確率が高い。 逆に、アメリカのように若年・中年層の死亡率が高い国では、 同じE(t)でもS(t)が低いため、 個人ベースのPVは小さくなる。

3.3.2 早期死亡による損失の近似

極端に単純化して、就労期間が一定の年数Nで、毎年の実質所得が一定yとすると、 ライフサイクル所得の現在価値は、年金現価係数を用いて次のように表される:

PVbaseline = y × [(1 - (1 + r)-N) / r]
  

この式において、括弧内の部分 [(1 - (1 + r)-N) / r] が「年金現価係数」である。

具体例1:通常の40年就労の場合
・平均実質所得 y = 50,000ドル/年
・割引率 r = 0.03(3%)
・就労年数 N = 40年

年金現価係数 = (1 - 1.03-40) / 0.03 ≈ 23.11

PVbaseline = 50,000 × 23.11 ≈ 115.6万ドル
  

具体例2:早期死亡により20年しか働けなかった場合
・就労年数 N = 20年(40歳で死亡と仮定)

年金現価係数 = (1 - 1.03-20) / 0.03 ≈ 14.88

PVreduced = 50,000 × 14.88 ≈ 74.4万ドル
  

早期死亡による損失額

損失 = PVbaseline - PVreduced
     = 115.6万ドル - 74.4万ドル
     ≈ 41.2万ドル
  

つまり、係数の差は 23.11 - 14.88 ≈ 8.23 であり、 この係数に年間所得を掛けた額(50,000 × 8.23 ≈ 41.2万ドル)が、 1人あたりの人的資本損失の現在価値となる。

マクロへの拡張
もしこのような早期死亡が、ある年に10万人規模で発生しているとすれば:

年間総損失 ≈ 41.2万ドル × 100,000人 ≈ 412億ドル

実際のアメリカでは、15〜49歳の年間死亡者数は約30万人以上であり、 そのうち「予防可能な死因」(薬物過剰摂取、銃関連死など)による死亡が 約10万人以上と推計される。 これらの死亡がなければ、平均してさらに20〜30年の就労が可能であったと仮定すると、 年間で400〜1,000億ドル規模の人的資本損失が発生している計算になる。

【「ストック」としての損失の意味】 この「412億ドル」という数値は、「(フローとして)毎年412億ドル失われる」という意味ではなく、 「(ストックとして)今年1年間だけで、412億ドル相当の『将来に稼ぐはずだった能力(人的資本)』が永久に失われた」 という意味である。これは現在価値ベースの累積損失額である。

【参考文献】人的資本の経済価値推計に関する方法論:

  • Murphy, K. M., & Topel, R. H. (2006). "The Value of Health and Longevity." Journal of Political Economy, 114(5), 871-904.
  • Hall, R. E., & Jones, C. I. (2007). "The Value of Life and the Rise in Health Spending." Quarterly Journal of Economics, 122(1), 39-72.
  • Viscusi, W. K., & Aldy, J. E. (2003). "The Value of a Statistical Life: A Critical Review of Market Estimates Throughout the World." Journal of Risk and Uncertainty, 27(1), 5-76.

3.3.3 マクロレベルの「見えない損失」

マクロレベルでは、ある国の早期死亡・疾病・収監がもたらす人的資本損失は、 世代ごとの人数と平均的なLossを掛け合わせたものとして、 次のようなイメージで表せる:

Total Loss ≈ Σcohorts [ Loss(cohort) × 人数(cohort) ]
  

これは、GDP統計上は見えない「失われたはずの所得・税収・消費・イノベーション」の合計であり、 HDIや平均寿命の差異に反映される「目に見えない富」の一部である。

【モデルの重要な限界】
  • 以下のモデルは極めて単純化されたものであり、実際の人的資本計算にはより複雑な要素が必要である。
  • 所得の年齢プロファイル、失業率、インフレ率、税制、社会保障受給、家事労働価値などを考慮していない。
  • 早期死亡による「家族・コミュニティへの波及効果」「イノベーションの喪失」などの無形損失は含まれていない。
  • 教育投資の回収機会の喪失、健康な余暇活動の価値なども含まれていない。
  • このモデルは概念的理解のためのものであり、政策立案に使用する場合はより精緻な分析が必要である。

4. 複合的な社会コストの可視化

4.1 治安悪化のスパイラル効果

負のスパイラル構造:

治安の悪化 → 刑務所人口増加(180万人) → 財政負担増(年間約820億ドル)
     ↓
若年層の早期死亡・投獄 → 人的資本の喪失
     ↓
コミュニティの衰退 → 教育・雇用機会減少
     ↓
さらなる犯罪増加 → 治安悪化の悪循環
    

この悪循環は特に低所得地域・マイノリティコミュニティで顕著であり、 世代を超えて貧困と犯罪が再生産される構造を作り出している。

出典:刑務所関連コストはVera Institute of Justice "The Price of Prisons" 2023、 Bureau of Justice Statistics 2023データに基づく。

4.2 食生活・健康の悪循環

健康悪化のスパイラル構造:

不健康な食環境(フードデザート・加工食品依存)
     ↓
肥満・生活習慣病(成人の36〜43%が肥満)
     ↓
医療費増大(GDP比16.6%) → 予防投資の不足
     ↓
労働生産性低下・病欠増加 → 所得減少
     ↓
より安価で不健康な食品への依存 → 健康悪化の悪循環
    

肥満率の人種間格差(黒人50.9%、白人37.9%)は、 所得格差・居住地域の食環境・医療アクセスの差異を反映している。

4.3 総合的な機会費用の試算

アメリカにおける主要な社会問題の経済コストを集計すると、 その規模は年間で数兆ドルに達すると推計される。

表8 アメリカにおける主要な社会問題の経済コスト(年間・推計値)
分野 直接コスト 機会費用・間接コスト 合計概算
(億ドル)
銃暴力 医療・救急:推計28億ドル
法執行・司法:数百億ドル
生産性損失、治安悪化による投資減少、
不動産価値低下、心理的コスト
~5,600
過剰な医療費 GDP比で先進国平均+約7%
(推計約1.5〜2兆ドル)
教育・インフラ・研究開発への
投資機会損失
~12,000
刑務所システム 州・連邦予算:年間約820億ドル
(収容者約180万人×平均約45,000ドル)
受刑者180万人の生涯所得損失、
家族への影響、再犯コスト
~1,820
肥満関連疾患 医療費・生産性損失 予防医療への投資不足、
QOL低下、労働参加率低下
~1,700
薬物過剰摂取 医療費、法執行、治療プログラム 人的資本損失(年間10万人超死亡)、
家族への影響、地域経済への打撃
~1,500
健康寿命の短さ 長期介護、慢性疾患管理 高齢期の労働参加機会損失、
健康な余暇活動の制限
~3,000
総計 社会問題関連コスト合計 ~25,620

出典:

  • 銃暴力:Giffords Law Center "The Economic Cost of Gun Violence" 2023、Everytown Research 2023
  • 医療費:CMS National Health Expenditure Accounts 2023、OECD Health Statistics 2024
  • 刑務所:Vera Institute of Justice 2023、Prison Policy Initiative 2023
  • 肥満:CDC "Adult Obesity Facts" 2023、Milken Institute "America's Obesity Crisis" 2022
  • 薬物:CDC "Drug Overdose Deaths" 2023、Society for the Study of Addiction economic studies 2022

【コスト試算の重要な限界】
  • 上記数値は複数の研究報告からの概算値であり、算出方法・前提条件が異なる。
  • 一部のコストは重複計上されている可能性がある(例:肥満による医療費増は「過剰な医療費」にも含まれる)。
  • 「機会費用」の算出には仮定が多く含まれており、不確実性が高い。
  • 心理的コスト・QOL低下など、金銭化が困難な損失は含まれていない。
  • これらの試算は政策議論の参考値として扱うべきであり、厳密な政策評価には個別の詳細分析が必要である。

この試算によれば、アメリカは年間で約2.5兆ドル超、GDP比で約9〜10%前後の 富を社会問題への対応と、それによって失われる機会に費やしている可能性がある。 これは日本の年間GDP(約4.2兆ドル)の半分以上に相当する巨額である。

もしアメリカが他の先進国並みの治安・健康水準を達成できれば、 これらの資源の大部分を教育、研究開発、インフラ整備、気候変動対策、 育児支援などの「未来への投資」に振り向けることができる。 これこそが、GDPの数字には表れない「真の豊かさの差」である。

4.4 多次元的な「豊かさ」の評価

従来の経済指標では捉えきれない「豊かさ」を評価するため、 複数の次元を統合的に見る必要がある。 以下は6つの主要指標による比較の概念図である。

「豊かさ」の多次元評価(レーダーチャート概念)

以下の6軸で各国を評価:

  1. 経済力:1人当たりGDP(購買力平価)
  2. 長寿:平均寿命
  3. 健康:健康寿命(HALE)
  4. 安全:治安(殺人率の逆数)
  5. 健康状態:肥満率の逆数
  6. 社会安定:刑務所収容率の逆数

アメリカは「経済力」軸では突出するが、「安全」「健康状態」「社会安定」の各軸で 他の先進国を大きく下回る。日本・フランス・ドイツは比較的バランスの取れた六角形を形成するのに対し、 アメリカは極端に歪んだ形となる。

5. 医療支出とGDPの逆説

5.1 高い医療費と相対的に低い健康アウトカム

アメリカの医療費は、絶対額・GDP比ともに世界最高水準である。 2022年のデータでは、総医療支出は約4.5兆ドル、GDP比で約16.6%に達している。 これはOECD平均(約9.2%)のほぼ1.8倍である。

表9 医療費のGDP比の比較(2022-2023年)
国・地域 医療費 / GDP(%) 1人あたり医療費
(USD PPP)
特徴
アメリカ 16.6 ~12,900 公的・民間を含めた総医療支出が突出して高い。 それにもかかわらず平均寿命・健康寿命は比較国より短い。
ドイツ 12.7 ~7,380 アメリカの約半分の支出で、より長い平均寿命と 低い若年死亡率を実現している。
フランス 12.1 ~5,700 公的医療保険制度により効率的な医療提供。
英国 11.3 ~5,390 NHS(国民保健サービス)による普遍的医療。
日本 10.9 ~4,660 最も効率的な医療システムの一つ。世界最長の平均寿命。
中国 5.5 ~630 医療費水準はまだ低いが、寿命は急速に改善している段階。

出典:

「高い支出・相対的に低いアウトカム」という組み合わせは、 経済学的には効率性の観点から問題がある。 GDPの観点だけで見ると医療セクターは巨大な産業として貢献しているように見えるが、 健康アウトカムとの費用対効果を考えると、 同じ資源を他の分野に振り向けていれば得られたはずの富が多く失われている可能性がある。

【アメリカの医療費が高い理由】

  • 管理コスト:複雑な保険システムによる事務コストが医療費の約15〜25%を占める
  • 薬価:処方薬の価格が他国の2〜3倍(政府による価格交渉が制限されてきた)
  • 医療サービス価格:MRI検査、出産、手術などの価格が他国より大幅に高い
  • 防御的医療:訴訟リスクを避けるための過剰な検査・治療
  • 慢性疾患の蔓延:肥満・糖尿病・心血管疾患の高い有病率

5.2 GDPが「悪い支出」を区別しないという問題

GDPは、支出の内容が「望ましいかどうか」を区別しない。 薬物乱用の増加で医療費が増えても、 交通事故や銃犯罪で救急医療が増えても、 それらはすべて経済活動としてGDPに加算される。

しかし、社会的観点から見れば、これらの支出は 「本来不要であったはずのコスト」であり、 事故や疾病による損失と相殺したネットの福祉はむしろマイナスである。 このギャップこそが、GDPが測りそこねている「失われた富」である。

6. HDI等の代替指標から見たアメリカと他国

国連開発計画(UNDP)が公表するHDIは、健康(寿命)、教育、所得の三つの次元を統合した指標である。 アメリカのHDIは0.938で「非常に高い人間開発」のカテゴリーに含まれるが、順位は世界17位にとどまる。 一方、ドイツは0.959(5位)、英国は0.946(13位)で、アメリカより高い水準にある。 日本は0.925(23位)、フランスは0.920(26位)で、順位こそアメリカより低いものの、 平均寿命では大きく上回っている。 中国は0.797(78位)で「高い人間開発」グループに位置し、急速に追いつきつつある段階といえる。

表10 HDIの比較(2023年データ)
HDI値 世界順位 特徴
ドイツ 0.959 5位 教育・医療の水準が高く、寿命も先進国平均並み。
英国 0.946 13位 教育・医療の水準が高く、寿命も先進国平均並み。
アメリカ 0.938 17位 所得水準は高いが、平均寿命・健康格差が足かせとなり上位国に劣後。
日本 0.925 23位 寿命は最長クラスだが、所得や一部の社会指標で課題。
フランス 0.920 26位 長寿で教育水準も高いが、経済成長率の低さなどの構造問題あり。
中国 0.797 78位 所得・寿命とも改善中で、中長期的な伸びしろが大きい。

出典:UNDP Human Development Report 2024/2025 (hdr.undp.org)

【HDIの構成と限界】

  • HDIは3つの指標の幾何平均:①健康(平均寿命)、②教育(就学年数)、③所得(1人あたりGNI)
  • 所得の寄与度が高いため、高所得国は自動的に高HDIになりやすい構造的バイアスがある
  • 不平等・環境・幸福度・治安などは考慮されていない
  • 補完指標として、不平等調整済みHDI(IHDI)、ジェンダー開発指数(GDI)などがある

このように、HDIのような「人間中心の指標」で見ると、 アメリカはGDP総量の順位(世界1位)や1人当たりGDP(世界トップクラス)に比べて明らかに低い位置にある。 一方で、日本・英国・フランス・ドイツはGDP総量ではアメリカに及ばないものの、 寿命や教育、格差などの面でよりバランスの取れた「豊かさ」を示している。

7. 結論:GDP大国は「豊かさ大国」とは限らない

アメリカの事例は、次の点を明らかにしている。

  • GDP総量が世界最大であっても、平均寿命や健康格差が劣っていれば、国民の生活の質は必ずしも高くない。
  • 若年・中年層の高い死亡率と収監率は、人的資本と将来の所得・税収を失わせる形で、大きな機会費用を生んでいる。
  • 治安の悪化(殺人率・銃関連死亡率・刑務所収容率の高さ)は、社会全体に年間数千億ドル規模の直接・間接コストを課している。
  • 肥満の蔓延は、医療費増大と労働生産性低下を通じて、年間1,700億ドル超の経済損失をもたらしている。
  • 健康寿命が約12年短いことは、「生きているが健康でない」期間が長く、QOLと社会コストの両面で問題である。
  • 医療費や社会問題への対応に多額の資源が投下されるほど、本来は教育・インフラ・福祉・未来への投資に回せたはずの富が失われる。
  • HDIや健康寿命、治安指標などを併用しない限り、「豊かさ」の全体像を捉えることはできない。
【留保事項】 本稿で提示した分析には以下の重要な限界がある:
  • 因果関係の方向性:貧困が健康悪化を招くのか、健康悪化が貧困を招くのか、あるいは両方向的なのか、厳密な因果推論はできていない。
  • 交絡因子:人種、教育、居住地域、遺伝的要因など、多数の交絡因子の影響を完全には制御できていない。
  • 文化的・制度的差異:各国の医療制度、社会保障、文化的価値観の違いを十分に考慮できていない。
  • 時間的変動:COVID-19など大規模な外生ショックの影響が残っている可能性がある。

7.1 政策的含意:具体的な改善策

政策的含意としては、GDP成長そのものを最終目標とするのではなく、 以下のような「生活の質」の改善を明示的な政策目的として設定する必要がある。

  1. 予防医療への投資増: 治療ではなく予防に焦点を当てた公衆衛生政策。 学校・職場での健康教育、定期健診の推奨、健康的な食環境の整備。 肥満率の削減目標を設定し、食品産業への規制も検討。
  2. 銃規制の強化: 背景調査の徹底、購入年齢制限の引き上げ(21歳以上)、 赤旗法(危険人物からの銃の一時的差し押さえ)の全州導入。 メンタルヘルスチェックの義務化。
  3. 刑事司法改革: 非暴力犯罪の非犯罪化・処罰軽減、薬物犯罪への治療優先アプローチ。 リハビリテーション・職業訓練を重視した刑務所改革。 刑務所人口を現在の180万人から半減させる長期目標。
  4. 食環境の改善: フードデザート(新鮮な食品へのアクセスが困難な地域)対策、 低所得地域への健康的な食品店の誘致支援。 加工食品への課税、健康的な食品への補助金。 学校給食の栄養基準強化。
  5. 平均寿命・健康寿命の向上: 若年層の早期死亡抑制を最優先課題として位置づけ。 薬物過剰摂取対策(オピオイド危機への対応)、自殺予防プログラム、 交通安全対策の強化。
  6. 格差縮小策: 人種・所得による健康格差の是正。 低所得地域への医療・教育リソースの重点配分。 ユニバーサル・ヘルスケアの導入検討。

7.2 財源配分の転換

もしアメリカが上記の政策等を実行し、治安・健康水準を他の先進国並みに改善できれば、 年間で推計2〜3兆ドル規模の社会コストを削減できる可能性がある。 この財源を以下のような「未来への投資」に振り向けることで、 「豊かな環境」に近づける余地がある。

  • 教育への投資:幼児教育の無償化、大学授業料の負担軽減
  • インフラ整備:老朽化した橋・道路・水道の更新、公共交通の拡充
  • 研究開発:基礎研究への公的投資増、イノベーション促進
  • 気候変動対策:再生可能エネルギーへの転換、グリーンインフラ
  • 育児支援:保育所の拡充、育児休業制度の充実

7.3 最終的なメッセージ

GDPは経済活動の「量」を測る重要な指標であるが、それだけでは国民の「豊かさ」を測ることはできない。 アメリカの事例が示すように、経済大国であっても、 治安、健康、寿命、社会の安定性といった「質」の面で深刻な問題を抱えていれば、 真の意味での豊かさは実現されない。

本稿で示した機会費用の概念は、 「今、社会問題に費やしている膨大な資源を、もし教育や健康増進に使えていたら、 どれほど豊かな社会が実現できていたか」という問いを投げかける。 GDPの数字の裏に隠れた「失われた富」を可視化することで、 各位が政策の優先順位を再考する契機としたい。

参考文献・データソース

主要統計データベース

主要学術文献

  • Case, A., & Deaton, A. (2020). Deaths of Despair and the Future of Capitalism. Princeton University Press.
  • Woolf, S. H., & Schoomaker, H. (2019). "Life Expectancy and Mortality Rates in the United States, 1959-2017." JAMA, 322(20), 1996-2016.
  • Chetty, R., et al. (2016). "The Association Between Income and Life Expectancy in the United States, 2001-2014." JAMA, 315(16), 1750-1766.
  • Murphy, K. M., & Topel, R. H. (2006). "The Value of Health and Longevity." Journal of Political Economy, 114(5), 871-904.
  • Ho, J. Y., & Hendi, A. S. (2018). "Recent trends in life expectancy across high income countries." BMJ, 362, k2562.

免責事項と方法論上の限界

本稿は査読を経た学術論文ではなく、公開統計データに基づく一般向けの解説である。 死亡率・収監率と経済的損失の関係は複雑で、逆因果・交絡因子(所得格差、教育水準、医療アクセス等)が存在する。本稿のモデルは極めて単純化されている。 使用している数値の多くは「概算」「推計」であり、データ年度・定義・集計方法が異なる場合がある。 COVID-19パンデミック(2020-2023年)は各国の平均寿命に大きな影響を与えており、最新データでもその影響が残っている可能性がある。

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