消費されるサッチャリズム~サナエノミクスとの相違~

高市氏がサッチャーへの敬意を明確に示したのは、自民党総裁選の討論会やテレビ出演での発言が代表的だ。とりわけ2021年総裁選では、記者から指導者像を問われた際に「サッチャー首相のように、必要な改革を恐れず実行したい」と述べ、硬直した政策構造を変える強い意思を重ね合わせる形で引き合いに出した。この発言は、改革派としての自らを印象付ける場面で繰り返し用いられ、サッチャー像は「妥協せず進むリーダーシップ」という文脈で語られてきた。こうした構図は実は英国でもよく見られる。2016年に就任したメイ氏の時も、メディアは「第二のサッチャー誕生か」と報じ、特にEU離脱交渉のタフな姿勢が重ねられた。2022年に就任したトラス氏の時も、就任直後の党大会やメディア出演で「サッチャーを意識しているのではないか」という論評が繰り返され、トラス氏自身も若い頃にサッチャーに憧れていたと語ったエピソードが紹介された。英国では女性首相が誕生する度に、ある種の儀式のようにサッチャー像が参照され、その比較は政治報道の定番となっている。

しかし、こうした象徴的な参照が政策内容と整合的とは限らない。サナエノミクスの政策パッケージを落ち着いて見れば、財政規律と供給側改革を基軸に据えたサッチャリズムとは真逆に映る。ではなぜ、強いリーダー像としてのサッチャーに言及しながら、政策は異なる方向性を取るのか。本稿はこの素朴な疑問を出発点に、四つの政策軸に沿って両者の違いを整理し、その背景にある時代状況と政策思想の構図を整理する。

問題設定

サナエノミクスはサッチャーへの尊敬を表明する一方で、掲げる政策パッケージは サッチャリズムの中核(財政規律・小さな政府・供給側改革)と逆方向に位置する。

具体的相違点(四つの政策軸)

政策軸 サッチャリズム サナエノミクス 相違の性質
財政運営 所得税・法人税減税+付加価値税増税。社会保障費削減により財政規律を重視。減税の前提として支出削減を実施。 所得税減税+歳出拡大。防衛、子育て、科学技術などへの恒常的支出増を同時に掲げる(「緊急時限定」との説明と矛盾)。 縮小 vs 拡張
政府の役割 小さな政府。民営化と規制緩和で市場に委ねる領域を拡大。 国家主導型。重点分野(半導体、AI、防衛産業等)を選定し公費で成長を後押し。 縮小 vs 拡大
成長戦略 供給側改革とマネタリズム。労働市場改革、民営化、競争促進による生産性向上と、金融引締めによるインフレ抑制を重視。 財政主導の需要・投資刺激。「危機管理投資・成長投資」として支出と減税で成長のエンジンを作る。 供給側 vs 需要側
財政規律 債務持続性と赤字削減を優先。公共借入返済を重視。 成長優先でプライマリーバランス黒字化目標を凍結。短期的赤字拡大を容認し、「成長による財政健全化」を主張。 規律重視 vs 成長優先

乖離の背景

  • 時代背景・経済状況の違い: 英国(1980年代)は二桁のインフレ、高失業率、「英国病」と呼ばれる経済停滞への対応が焦点で、財政引締めとインフレ抑制が急務だった。日本(現代)は低成長、賃金停滞、人口減少という状況にあり、需要刺激と成長投資が求められる環境。
  • 政策思想の違い: サッチャリズムは新自由主義・マネタリズムという明確で一貫した経済思想に基づく。サナエノミクスは右派的な国家観・安全保障観と、左派的な積極財政・産業政策を組み合わせた折衷的性格を持ち、「本来は相容れない二つの軸を同居させた」構造。
  • 構造課題の違い: 英国は肥大化した福祉国家と労働組合の既得権が成長阻害要因だったため、その解体が改革の中心。日本は安全保障費、少子化対策、科学技術投資など新たな支出圧力に直面し、歳出削減路線が政治的に困難。
  • 政治経済構造の違い: 日本では社会保障費の硬直性と高齢者中心の有権者構成により、大胆な歳出削減が選挙上成立しにくい。サッチャーが直面した労働組合との対決とは異なる政治的制約。
  • 尊敬の性格: サッチャーへの言及は政策思想の継承というより、強いリーダー像、改革への信念、不人気政策でも説明責任を果たす姿勢という象徴面・スタイル面での参照として機能している。政策の実質的内容ではなく、リーダーシップの型としての尊敬。

消費されるサッチャー

政治家がサッチャーの名を挙げるとき、それは政策的一貫性を示すためとは限らない。政治学では、歴史上の人物や象徴的イメージを借りて有権者の感情や認知を動員する行為を象徴政治と呼び、Edelman(1964)が示したように、こうした象徴は具体的政策から切り離され、独立した記号として流通する。サッチャーの名が喚起するのは、本来の財政規律や新自由主義的改革の体系ではなく、「強い意思」や「改革を恐れない指導力」といった抽象的イメージである。

Lupia and McCubbins(1998)は、政治家が人物参照を短縮符号として使い、長い説明なしに政治的スタンスやリーダー像を伝達する仕組みを示した。日本の総裁選のようにメッセージの即効性が重視される場面では、海外の著名な指導者の名を借りることは、象徴的意味を一瞬で伝える便利な手法となる。

英国でもこの現象は制度化しており、Evans and Cowley(2016)が論じるように、女性首相が誕生する度にメディアが自動的にサッチャー像を持ち出す「儀式化」した反応が形成されている。メイ氏もトラス氏も政策内容ではサッチャーと一致しない部分が多かったが、それでも就任直後は必ず「第二のサッチャーか」という問いが投げかけられ、本人も象徴的な比較を受け入れる構図が繰り返された。

さらに政治心理学では、Marcus, Neuman and MacKuen(2000)が示したように、政治行動の多くは理性ではなく情動によって駆動される。指導者像は、政策よりも「強さ」「決断力」「危機に立ち向かう姿勢」といった情動的評価を喚起する媒体として機能する。サッチャーという象徴は、まさにその情動的ブランドとして利用されている。

こうした理論的背景を踏まえると、高市氏がサッチャーを尊敬すると述べながら、実際の政策はサッチャリズムの中核としばしば逆方向にあるという矛盾は、表面的に見えるほど奇妙ではない。参照されているのは政策体系ではなく、象徴化されたリーダー像であり、その象徴を借りることで政治的メッセージを効率的に伝えようとする戦略なのである。尊敬の表明は偶像崇拝というより、象徴政治と情動動員が交差する現代政治の典型例として理解すべきだろう。

結論

サッチャリズムとサナエノミクスは、財政運営(緊縮 vs 拡張)、政府の役割(縮小 vs 拡大)、成長戦略(供給側 vs 需要側)、財政規律(規律重視 vs 成長優先)の主要軸で逆方向に位置する。 この乖離は、両者が直面する経済状況(インフレ vs デフレ)、政策思想(一貫した新自由主義 vs 折衷的な国家主導型資本主義)、構造課題(福祉国家の縮小 vs 新たな支出圧力への対応)の根本的相違に起因する。

サッチャーへの尊敬は、政策の方向性ではなく、リーダーシップのスタイル・強い信念・説明責任という象徴的レトリックとして理解される。政策の実質は各国の国情と政治的制約によって規定されており、「日本版サッチャリズム」は政策内容においてサッチャリズムの対極に位置する逆説を示している。

※この分析は、尊敬する政治家への言及と実際の政策内容との乖離という、現代政治でしばしば見られる現象を整理したものであり、特定の政治的立場を支持・否定するものではありません。

  • Edelman, M. (1964). The symbolic uses of politics. Urbana, IL: University of Illinois Press.
  • Lupia, A. and McCubbins, M. D. (1998). The democratic dilemma: Can citizens learn what they need to know? Cambridge: Cambridge University Press.
  • Evans, G. and Cowley, P. (2016). The policies of Theresa May’s government, 2016–? in Heppell, T. and Seawright, D. (eds), The Conservative Party after Brexit. Manchester: Manchester University Press.
  • Marcus, G. E., Neuman, W. R. and MacKuen, M. (2000). Affective intelligence and political judgement. Chicago, IL: University of Chicago Press.
  • Somers, M. R. (1994). The narrative constitution of identity: A relational and network approach. Theory and Society, 23(5), 605–649.
  • Laclau, E. (2005). On populist reason. London: Verso.

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