消費されるサッチャリズム、サナエノミクスとの相違

高市早苗氏はマーガレット・サッチャーを敬愛している。2021年の自民党総裁選の討論会では「サッチャー首相のように、必要な改革を恐れず実行したい」と述べた。2024年の総裁選でも、強い意思を持つ指導者像としてサッチャーの名が繰り返し引かれた。では問おう。サナエノミクスの政策パッケージを開いたとき、そこにサッチャリズムの影は見えるだろうか。

答えは、率直に言って、ほぼ見えない。財政規律を最優先したサッチャーと、「責任ある積極財政」を掲げて歳出を拡大するサナエノミクスは、主要な政策軸でことごとく逆方向を向いている。尊敬する指導者の名を挙げながら、その指導者の政策とは正反対の方向に進む。これは矛盾だろうか。それとも、政治の世界ではごく自然に起こることなのだろうか。あるいは、「矛盾」という枠組み自体が事態を見誤らせているのだろうか。

本稿はこの素朴な疑問を出発点に、サッチャリズムとサナエノミクスが何を目指し、何に制約され、どんな手段を選んだのかを比較する。そのうえで、「サッチャー」という名前が政策を離れて一人歩きする現象——象徴の消費——について考える。特定の政治的立場を支持も否定もしない。興味があるのは、なぜこの「ずれ」が生じ、なぜそれが問題にならないのか、という構造のほうだ。

サッチャーは何と戦ったか

1979年、サッチャーが首相に就いた英国は、端的に言って病んでいた。インフレ率は1975年に24.2%という戦後最高を記録し、サッチャー就任直後の1980年にも18%まで再燃した。失業率は上昇を続け、国有企業の赤字は膨張し、労働組合のストライキは年間1,000万日以上の労働日を奪っていた。「英国病」という言葉が国際的に定着し、経済的衰退は国の自画像そのものだった。

サッチャーが掲げた処方箋は明快だった。まずインフレを叩く。そのために金融を引き締める。政策金利は就任半年で12%から17%に引き上げられた。財政面では、歳出を絞りながら税の構造を組み替えた。所得税の最高税率を83%から60%へ(のちに40%まで)引き下げる一方、付加価値税(VAT)を8%から15%へほぼ倍増させた。「直接税から間接税へ」という転換である。稼ぐ意欲を削がないために所得への課税を減らし、消費への課税で財源を補う。その思想の背骨にあったのはハイエクやフリードマンの系譜に連なる新自由主義、つまり「政府が市場に介入するほど経済は歪む」という信念だった。

ただし、ここで一つ注意がいる。サッチャリズムの「理念」と「実績」は必ずしも一致しない。サッチャーは小さな政府を標榜したが、ケンブリッジ・ジャーナル・オブ・エコノミクスに掲載された研究(2020年)によれば、政府の税収はGDP比で1979年の30.4%から1990年の30.9%へとむしろ微増した。1981-82年には33.5%に達する年すらあった。実質総支出も在任中に7.7%増えている。景気後退による失業給付の膨張や、北海油田収入への依存など、現実の財政は理念通りには動かなかった。公的支出のGDP比は就任時の45.1%から1982年には48.1%まで膨らみ、1989年にようやく39.2%まで下がった。失業率は1979年の5.4%から1982年には10.7%へほぼ倍増し、1987年まで二桁が続いた。「緊縮」の代償は軽くなかった。さらに、退任時にはインフレが再び10%に達しており、「インフレ退治」という最大の看板すら在任中に完全には達成できなかった。つまりサッチャリズムとは、最初から最後まで理念通りに貫徹された体系というよりも、「市場による規律づけを志向し、制度改革を通じてその方向に圧力をかけ続けた」運動体と理解するほうが正確だ。理念の首尾一貫性と、実績の凹凸を分けて見る必要がある。

それでも方向性は揺るがなかった。民営化(ブリティッシュ・テレコム、ブリティッシュ・ガス、英国航空など)、労働組合改革(ストライキ権の制限、クローズドショップの実質的廃止)、金融市場の規制緩和(1986年のビッグバン)——これらはすべて、「国家が所有し管理する領域を縮小し、市場競争に委ねる」という一貫した方向を指していた。組合の組織率は1979年の52.4%から1989年には37.5%に下がり、ストライキによる労働損失日数は1980年代前半の年平均1,050万日から後半には390万日に急減した。サッチャーの敵は、制度の内部にいた。国有企業、労働組合、価格賃金調整の硬直した仕組み。それを壊すことが「改革」だった。

サナエノミクスは何を目指しているか

2025年10月に就任した高市首相が掲げる「サナエノミクス」は、自ら「ニュー・アベノミクス」と呼んだこともある通り、アベノミクスの延長線上にある。だがその延長には、明確な方向転換が含まれている。アベノミクスの「第三の矢」だった成長戦略を、「危機管理投資・成長投資」に差し替えたのだ。

具体的に見てみよう。2025年11月に閣議決定された総合経済対策の事業規模は42.8兆円。リーマン・ショックやコロナ禍の対策に次ぐ歴代6番目の規模だ。補正予算の一般会計総額は約18.3兆円で、そのうち約11.7兆円——およそ64%——が新規国債の発行で賄われる。重点投資17分野にはAI、半導体、量子コンピューティング、造船、防衛産業、サイバーセキュリティが含まれる。防衛費のGDP比2%達成は2027年度の予定を前倒しし、2025年度中の実現を目指す方針が示された。

財政健全化の指標についても大きな転換があった。2025年11月、高市首相は衆院予算委員会でプライマリーバランス(PB)黒字化目標の単年度確認を「取り下げる」と表明した。代わりに掲げたのは、政府債務残高の対GDP比を「少し長いスパンで」引き下げるという方針だ。日本の政府債務は2025年3月末時点で約1,324兆円、GDP比で約235%に達しており、先進国で最も高い水準にある。

高市首相はこの方針を「財政ポピュリズム」とは異なると説明する。成長によって税収を自然増させ、結果として債務比率を下げる——いわゆるドーマー条件に依拠した論理だ。名目成長率が長期金利を上回る限り、無理にPBを黒字化しなくても債務比率は安定的に下がり得る、という議論である。大和総研の分析(2025年12月)は、この論理の前提を検討し、財政支出拡大だけでは債務対GDP比を引き下げるのは難しいと指摘している。また、実質政府債務残高が1%増加すると実質実効為替レートが1年後に0.9%程度円安になるとの推計も示しており、積極財政が物価高対策と矛盾する可能性にも触れている。

何が違うのか——四つの座標軸

両者の違いを「拡張か緊縮か」の一言で片づけることもできる。だが、それでは「なぜ同じ"改革"の旗を掲げながらここまで異なるのか」が見えてこない。もう少し立体的に整理するために、四つの軸を使おう。

第一に、最優先目標が異なる。サッチャリズムの最優先はインフレの鎮圧と供給力の回復だった。生産性を上げ、企業間競争を促し、経済の体力を取り戻す。サナエノミクスが掲げるのは「強い経済」だが、その力点は経済安全保障と国内産業基盤のレジリエンス(強靭性)にある。半導体の供給網を国内に引き寄せ、防衛技術の自律性を高め、外生的なショックに耐えられる構造をつくる。サッチャーが経済の「効率」を追求したとすれば、サナエノミクスは経済の「頑健さ」を追求している。目標が違えば、手段も異なるのは当然だ。

第二に、政治的な制約条件が異なる。サッチャーの前に立ちはだかったのは労働組合と国有企業だった。制度の内側に既得権益が蓄積し、それが改革の障壁になっていた。だから敵を名指しし、正面から対決することができた。1984-85年の炭鉱ストライキはその最も劇的な場面であり、サッチャーはこの対決に勝利することで改革の不可逆性を印象づけた。日本の場合、最大の支出圧力は高齢化に伴う社会保障費の膨張であり、これは交渉によって「壊す」ことのできる制度というより、人口構造が生み出す不可避な重力だ。65歳以上の人口が全体の約29%を占め、2040年には35%に近づく見通しの社会で、年金や医療費の大幅削減が選挙で支持される可能性は極めて低い。つまり、日本の政治には「歳出を切る」選択肢が事実上封じられているという構造的制約がある。サッチャーには戦える敵がいた。日本の政治には、戦う相手のいない制約がある。

第三に、使える手段のセットが異なる。サッチャーは国有企業を売却し、規制を緩和し、労働法制を改め、市場競争の圧力を高めた。いわば「国家が手を引くことで民間を強くする」手法だ。サナエノミクスが選んだのはその逆で、「国家が手を出すことで産業を強くする」手法——戦略産業の選定、補助金と税制優遇、サプライチェーン政策、防衛産業への公的投資。これは日本独自の発想というわけではなく、米国のCHIPS法や欧州のグリーン・ディール政策にも見られる潮流だ。1980年代に「市場による規律づけを強める国家」だったサッチャリズムに対し、2020年代のサナエノミクスは「国家動員によって厚みをつくる保守」と位置づけられる。

第四に、財政と金融のマクロ整合性に対する態度が異なる。サッチャーは中期財政金融戦略(MTFS)を通じて、財政支出の抑制と金融引締めの整合を図った。少なくとも理念としては、両輪を同じ方向に回すことを重視した。サナエノミクスは、財政を拡張しながら金利上昇リスクについては「管理可能」という前提に立つ。あるいは、そのリスクの顕在化を先送りする構造になっている。ここに賭けがある。名目成長率が長期金利を上回り続ける限り賭けは成立するが、金利が上向く局面では新規国債の利率が上がり、数年遅れで利払い負担が膨らむ。このリスクは構造的なものであり、成長戦略の成否と直結する。

なぜ同じ名前が呼ばれるのか

ここまでの整理で見えてくるのは、サナエノミクスがサッチャリズムと方向を異にするのは偶然ではなく、時代環境・政治制約・政策手段の違いから生じる構造的な帰結だということだ。では、なぜ高市氏はそれでもサッチャーの名前を引くのか。そして、なぜ有権者はその「ずれ」を特に問題にしないのか。

まず、なぜサッチャーなのかを考えてみよう。同じ1980年代の新自由主義ならレーガンもいる。しかし参照先としてサッチャーが選ばれるのには複合的な理由がある。女性であること。保守であること。周囲の反対を押し切って改革を断行したこと。そしてその姿勢が国際的に「鉄の女」として認知されていること。日本初の女性首相を目指す保守政治家にとって、これほど条件の揃った先例は他にない。政策の中身よりも、「属性×姿勢×知名度」の組み合わせが参照先の選定を規定している。

政治学には「象徴政治」という概念がある。マレイ・エーデルマン(Edelman, 1964)は、政治において象徴は具体的な政策から切り離され、独立した記号として流通すると論じた。サッチャーの名前が喚起するのは、財政規律や民営化の具体的な政策体系ではなく、「強い意思」「妥協しない姿勢」「改革を恐れない指導力」といった抽象的なイメージだ。

この現象を三つの機能に分けて考えると見通しがよくなる。

一つ目は、不人気政策の正当化だ。痛みを伴う決断をする指導者の先例として、サッチャーの名は「厳しい選択には理由がある」という道徳的な下地をつくる。プライマリーバランスの凍結も防衛費の増額も、短期的には異論を招く。その異論に先回りするかたちで「サッチャーのように必要な改革を恐れない」と宣言すれば、痛みの正当化装置が起動する。

二つ目は、政治的アイデンティティの即時伝達だ。ルピアとマクカビンズ(Lupia and McCubbins, 1998)が示したように、政治家は人物参照を短縮符号として使い、長い説明なしに自らの立ち位置を伝える。総裁選のように限られた時間でメッセージを届ける場面では、「サッチャーのような」と言えば、それだけで「この人は決断型の改革者だ」というタグが貼られる。政策の詳細を語る時間はなくても、指導者としての型は一瞬で伝わる。

三つ目は、感情の動員だ。マーカスら(Marcus, Neuman and MacKuen, 2000)の情動知性理論が示すように、政治的判断の多くは政策の合理的評価ではなく、「強さ」「決断力」「危機に立ち向かう姿勢」といった感情的な評価によって駆動される。サッチャーという名前は、政策ブランドではなく感情ブランドとして機能する。「あの人のように強い」と感じさせることが、政策の整合性よりも強力な政治的資源になる場面がある。

この三つの機能が揃うと、政策パッケージの整合性は二次的になる。有権者が受け取っているのは「政策体系としてのサッチャリズム」ではなく、「強い指導者の記号としてのサッチャー」だからだ。そしてこれは有権者が愚かだからではない。政策の詳細を一つ一つ検証するには膨大な時間とコストがかかる。多くの人は象徴やブランドを手がかりにして政治的判断を効率化している。象徴政治はその効率化の仕組みに乗っている。

英国でも繰り返される儀式

この現象は日本に限らない。英国では、女性の保守党首相が誕生するたびにサッチャーが自動的に参照される、いわば儀式化した反応が形成されている。2016年に就任したテリーザ・メイ氏の場合、メディアは即座に「第二のサッチャーか」と問い、EU離脱交渉のタフな姿勢がサッチャー像に重ねられた。2022年のリズ・トラス氏のときも同様で、トラス氏自身が若い頃のサッチャーへの憧れを語ったエピソードが広く紹介された。

だが、メイ氏もトラス氏も、政策内容でサッチャーと一致していたわけではない。メイ氏は産業戦略を復活させ、国家の積極的関与を掲げた。「市場の自由に任せれば万事うまくいくという考えを信じるなら、あなたが保守党の居場所だとは思わない」とまで演説している。これはサッチャーの信念とほぼ真逆だ。トラス氏は大型減税を打ち出したが、財源の裏づけを欠き、ポンドの急落と国債利回りの急騰を招いて44日で退陣した。皮肉なことに、サッチャーに最も近い政策——大幅減税——を実行しようとしたトラス氏が、最も短命に終わった。サッチャーのVAT増税と所得税減税の組み合わせは「直接税を減らし間接税で補う」という一つの設計だったが、トラス氏はその片方だけを取り出し、もう片方を無視した。名前を借りることと、構造を理解することは別の作業だ。

ここから浮かぶのは、サッチャーの名がもはや特定の政策体系に紐づいた参照ではなく、内容を入れ替え可能な空の器——ラクラウ(Laclau, 2005)のいう浮遊するシニフィアン——として流通しているという構図だ。「サッチャー」という記号には「強い保守の女性指導者」という輪郭だけが残り、その内部には時代や状況に応じて異なる政策内容が注ぎ込まれる。サッチャリズムの実体が消費され、象徴だけが残り、その象徴が繰り返し再利用される。

「逆」であることの必然性

ここまで読んで、「結局、時代が違うから政策が違うのは当たり前ではないか」と感じた人もいるだろう。それ自体は正しい。だが、もう一段踏み込んで考えてみたい。「当たり前」の中身を分解すると、単純な時代の違い以上のものが見えてくる。

サッチャーが戦った敵は、制度の内部にいた。組合、国有企業、硬直した価格賃金調整。これらは「壊す」ことができる対象だった。だからサッチャリズムは「解体」を核とする改革になった。改革の成功条件は制度を変形できるかどうかにかかっており、政治的意思さえあれば原理的には実行可能だった。日本が直面しているのは、人口減少、需要不足、地政学的リスク、サプライチェーンの脆弱性という外生的な制約だ。これらは交渉の相手がいない。壊す対象がない以上、「何かを壊すことで効率を高める」というサッチャー型の改革は成立しにくい。代わりに「何かを積み上げることで耐性を高める」方向に向かう。

このことは、保守思想の内部に二つの異なる潮流があることを示している。一方に「市場競争で規律づける保守」がある。サッチャーはこちらだった。他方に「国家動員で厚みをつくる保守」がある。安全保障と産業政策を結びつけ、国家の力で産業基盤を維持しようとする立場だ。これは「右派的な国家観+左派的な積極財政」という折衷ではなく、保守の中のもう一つの系譜として存在する。米国のCHIPS法を推進したのは超党派だったし、欧州の産業政策も保守政権が担う場合が少なくない。サナエノミクスをこの文脈に置くと、サッチャリズムとの対比は「保守と非保守の対立」ではなく、「保守内部の路線分岐」として理解できる。

サナエノミクスが積極財政を採るのは、政治的に楽だからだけではない(もちろんその側面もある)。人口が減り、民間の投資意欲が長期にわたって低迷してきた経済では、政府が支出の主体にならざるを得ない構造がある。その構造のもとで「小さな政府」を唱えることは、処方箋として成立しにくい。サッチャーが「市場に委ねれば経済は回復する」と言えたのは、市場の外側(国有企業や組合の既得権)に改革の余地があったからだ。日本の場合、市場に委ねるだけでは埋まらない穴が多すぎる。半導体の供給網は地政学が絡み、防衛産業は市場原理では成立しにくく、少子化対策はそもそも市場の守備範囲外だ。

だから、サナエノミクスがサッチャリズムと「逆」であるのは、矛盾というよりも、異なる制約条件に対する異なる合理的応答の結果だと整理できる。問題があるとすれば、それは方向性そのものよりも、拡張的な財政運営の持続可能性——金利上昇リスク、債務膨張、世代間の負担配分——にある。そしてその問題は、「サッチャーのように」という象徴的な言葉遣いでは解決しない。

象徴は何を隠すか

最後に、もう一つだけ問いを立てておきたい。

象徴政治の効用は、メッセージの伝達効率を上げることにある。だが効率の裏には省略がある。「サッチャーのように改革を恐れない」という宣言が即座にリーダーシップの型を伝えるのと引き換えに、「では具体的にどの改革を、誰のコストで、どこまでやるのか」という問いは後景に退く。象徴が強力であればあるほど、有権者はその先の政策詳細を吟味する動機を失いやすい。

サナエノミクスの場合、「責任ある積極財政」という表現自体が一種の象徴操作を含んでいる。「積極財政」は歳出拡大を意味し、「責任ある」はその抑制を意味する。二つの方向が一つのフレーズに同居しており、聞く人は自分の聞きたいほうを聞くことができる。財政拡張を望む人は「積極」に安心し、財政規律を気にする人は「責任」に安心する。フレーミングとしては巧みだが、実態がどちらに傾くかは政策の執行段階にならなければわからない。補正予算18.3兆円のうち64%が国債発行で賄われるという事実は、少なくとも現時点では「積極」の比重が圧倒的に重いことを示している。

サッチャーの名前もまた、同じ構造で機能している。「あのサッチャーのように」と言えば改革への本気度が伝わる。しかし、サッチャーの改革の中身——歳出削減、社会保障費の抑制、労組との全面対決——は、日本の文脈では実行不可能なものが多い。参照されているのは改革の内実ではなく、改革者という物語の型だ。ソマーズ(Somers, 1994)が論じたように、アイデンティティはしばしば物語を通じて構成される。「私はサッチャーのような改革者である」という自己物語が、政策的整合性よりも優先される局面がある。

それは必ずしも悪意のある欺瞞ではない。政治家が象徴を使うのは、象徴が有効だからだ。問題は、有権者の側がその象徴の奥にあるものを問い返す習慣を持てるかどうかにある。サッチャーの名を聞いたとき、「改革に本気なのだな」と受け取るだけでなく、「では何をどう変えるのか。その方向はサッチャーのそれと同じなのか、違うのか。違うとすれば、なぜ違うのか」と問い返すこと。象徴を受け取るだけでなく、分解すること。この小さな習慣が、象徴政治の効用と限界を見極める出発点になる。サッチャーの名前が呼ばれたとき、それは問いの終わりではなく、問いの始まりだ。

サッチャリズムとサナエノミクスは、最優先目標(インフレ鎮圧 vs 安全保障と成長)、政治的制約(組合 vs 高齢化)、手段(市場化 vs 国家動員)、マクロ整合性(財政・金融の一体引締め vs 財政拡張下の金利管理)という四つの軸で、いずれも逆方向を指している。その乖離は、時代状況と政策思想の根本的な違いから生じている。サッチャーへの尊敬は、政策の方向性ではなく、リーダーシップの型と改革への信念という象徴面への参照として機能している。「日本版サッチャリズム」が政策内容においてサッチャリズムの対極に位置するのは逆説であると同時に、象徴が消費される現代政治の一つの典型だろう。

※この分析は、尊敬する政治家への言及と実際の政策内容との乖離という現象を構造的に整理したものであり、特定の政治的立場を支持・否定するものではない。

参考文献:Edelman, M. (1964). The Symbolic Uses of Politics. University of Illinois Press. / Lupia, A. and McCubbins, M. D. (1998). The Democratic Dilemma. Cambridge University Press. / Marcus, G. E., Neuman, W. R. and MacKuen, M. (2000). Affective Intelligence and Political Judgment. University of Chicago Press. / Laclau, E. (2005). On Populist Reason. Verso. / Somers, M. R. (1994). The narrative constitution of identity. Theory and Society, 23(5), 605–649. / Cambridge Journal of Economics (2020). 1979 and all that: a 40-year reassessment of Margaret Thatcher's legacy on her own terms. 44(2), 319–342. / House of Lords Library (2024). The UK economy in the 1980s. / 大和総研 (2025). 高市政権の財政政策は更なる円安を招くのか. / 第一生命経済研究所 (2025). サナエノミクスの政策課題.

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