自国通貨建て国債は本当に「安全」なのか:理論と市場現実の狭間で
「自国通貨建ての国債はデフォルトしない」——財政論議でしばしば聞かれるこの主張は、一定の妥当性を持つと同時に、危険な単純化でもある。本稿では、理論的な会計構造と市場の現実、そして日本固有の文脈を整理し、財政の持続可能性について考察する。
1. 自国通貨建て国債の理論:会計恒等式の限界
理論的基礎
現代貨幣理論(MMT)を含む一部の経済学派は、自国通貨を発行できる政府は名目的な資金制約に直面しないと主張する。実際、政府支出→民間預金増加→国債購入資金の創出という循環は会計恒等式として成立する(Wray, 2015)。日本銀行も2016年の「量的・質的金融緩和」の総括的検証において、財政ファイナンスのメカニズムを事実上認めている。
債務管理戦略の限界
金利上昇局面に入り、財政負担の増大が国会や市場で懸念される中、短期債への依存を高めれば利払いを抑えられるという議論が一部で浮上した。しかし、この理論には重大な前提がある。財務省が「超長期債の発行を抑え、短期債中心に切り替えれば金利リスクを回避できる」という議論は、市場の価格形成メカニズムを軽視している。短期金利が将来も低位に固定されるという前提に立つもので、市場の反応を十分に踏まえていない。 短期債比率の上昇はむしろロールオーバーリスクを高め、金利を押し上げる逆効果を招き得る。
長期金利は以下の要因で決定される(Fisher, 1930の古典的枠組みを現代化したもの):
- 実質金利(経済成長率とリスクフリーレートの期待)
- インフレ期待(BEI: Break-Even Inflation等で測定可能)
- 期間プレミアム(長期保有リスクへの補償)
日本の10年国債金利を例にとると、2024年初頭から日銀の政策修正観測が強まった際、長期金利は0.2%台から一時1.1%超まで急上昇した。これは「発行年限を変えれば済む」という単純な話ではないことを示している。
2. 市場の脆弱性:英国LDI危機の教訓
事象の経緯
2022年9月の英国LDI(Liability-Driven Investment)危機は、財政政策への信認低下が金利市場の需給構造を通じて増幅されるメカニズムを示した。
- 9月23日:トラス政権が大規模減税案を発表
- 9月26日:英国債30年金利が4.5%→5.0%超へ急騰(わずか3日間)
- 9月28日:イングランド銀行が緊急介入(650億ポンドの国債買入)
メカニズムの複雑性
危機の本質は単なる「需給の乱れ」ではなく、以下の連鎖反応だった:
- 政策信認の喪失:財政規律への疑念→長期金利上昇
- 年金基金のレバレッジ解消:ギルトを担保に借入を行っていた年金基金が、金利上昇で追証に直面
- 強制売却の連鎖:追証対応のため大量のギルト売却→さらなる金利上昇
- システミックリスク:1兆ポンド規模のLDI市場全体が機能不全の危機
英国債務残高はGDP比約100%と日本(約260%)より遥かに低く、かつポンドは国際通貨である。それでも、市場の信認と需給構造の脆弱性が組み合わされば、短期間で深刻な危機が発生し得ることを示した(Baranova et al., 2023, Bank of England Staff Working Paper)。
3. 歴史的教訓:自国通貨建てでも起きた危機
ロシア1998年:GKO危機
背景:
- ルーブル建て短期国債(GKO)の金利が年50-150%に上昇
- 同時に外貨建て債務(ミンフィン債)も累積
- 固定為替レート制(対ドル6ルーブル)の維持困難
危機の展開:
- 1998年8月17日:ルーブル建てGKOのデフォルト宣言
- 同時に為替レート制放棄(ルーブルは数週間で価値が約3分の1に下落)
- 外貨建て債務も事実上不履行
この事例の特徴は、自国通貨建て債務でも、通貨への信認が失われれば実質的な支払い停止が起こることを示した点にある(Chiodo & Owyang, 2002)。ただし、同時に以下の構造的脆弱性があった:
- 財政赤字がGDP比5-8%で慢性化
- 外部債務は1999年(危機後)にGDP比90.9%に、短期債務が高比率
- 銀行システムが未発達で国債消化力が脆弱
- 外貨準備が枯渇(1998年8月時点で120億ドル程度)
トルコ1970年代:高インフレによる実質的デフォルト
トルコでは形式的な債務不履行は避けたものの、慢性的な高インフレ(1970年代後半は年率50-100%)により、自国通貨建て債務の実質価値は大きく毀損した。これは"インフレ税"による実質的デフォルトと言える(Sargent & Wallace, 1981の理論枠組みに対応)。
当時のトルコの構造的問題:
- 財政規律の欠如(政治的不安定)
- 中央銀行の独立性欠如(財政従属)
- 変動為替レート制下での通貨信認低下
- 外貨建て債務比率の高さ
4. 形式的デフォルト回避と実質的生活への影響:最も重要な論点
「デフォルトしない」論の最大の盲点
「自国通貨建て国債はデフォルトしない」という主張には、重大な前提が隠れている。それは、政府が通貨を発行して債務を返済できても、その通貨の価値自体が維持される保証はないという点である。
形式的デフォルト回避の代償:通貨価値の毀損
政府が国債を自国通貨で償還し続けることは可能でも、過度な通貨発行や財政規律の喪失により、通貨価値が大きく低下すれば、家計の実質購買力は深刻な打撃を受ける。これは形式的なデフォルトとは異なるが、経済的影響は同等かそれ以上に深刻となり得る。
生活への具体的影響
高インフレと通貨価値の低下が起きた場合、以下の経路で家計に影響が及ぶ:
1. 金融資産の実質価値減少
日本の家計金融資産2,230兆円のうち、約50%は現金・預金である。年率10%のインフレが続けば、7年で実質価値は半減する。老後のために蓄えた資産が、名目額は変わらないまま実質的な購買力を失う。
2. 固定収入の実質価値低下
- 年金受給者:年金額の調整は物価上昇に遅れるため、実質購買力が低下
- 給与所得者:賃金上昇が物価上昇に追いつかない場合、実質賃金がマイナスに
- 債券保有者:国債を含む固定利付債券の実質リターンが低下
3. 輸入財価格の上昇
通貨安により、食料・エネルギーなど生活必需品の輸入コストが上昇。日本の食料自給率は約40%(カロリーベース)、エネルギー自給率は約13%と低く、輸入価格上昇の影響を受けやすい構造にある。
歴史的事例:先進国の経験
英国(1970年代)
1973年のオイルショック後、英国はスタグフレーション(高インフレと低成長の併存)に陥った:
- 1975年のインフレ率は24.2%に達し、実質賃金が大幅に低下
- ポンドは対ドルで1976年までに約30%下落
- 1976年、英国政府はIMFに支援を要請(先進国としては異例)
- 緊縮財政と金融引き締めにより、1980年代初頭までにインフレは沈静化
イタリア(1970-1990年代)
財政規律の緩みと政治的不安定により、持続的な高インフレを経験:
- 1970年代から80年代にかけて、年率10-20%のインフレが常態化
- 公的債務がGDP比100%超に達し、リラの信認が低下
- 1992年の通貨危機でリラが欧州為替メカニズム(ERM)から離脱
- ユーロ導入(1999年)により、通貨の信認問題は解消
これらの事例は、先進国でも財政規律の喪失と通貨の信認低下により、持続的な高インフレと生活水準の低下が起こり得ることを示している。
日本における現実的なリスクシナリオ
日本で考えられるのは、以下のような連鎖である:
- 財政規律の緩み:社会保障費の膨張と政治的な歳出削減の困難さから、財政赤字が拡大
- 金融政策の制約:財政ファイナンスへの懸念から、日銀の政策運営の独立性に疑念
- インフレ期待の変化:市場が「財政再建は困難」と判断
- 円の緩やかな減価:円安が進行し、輸入インフレが顕在化
- 実質購買力の低下:名目所得の伸びがインフレ率を下回り、生活水準が低下
理論的枠組みの限界
現代貨幣理論等の「自国通貨建て債務に資金制約はない」という主張は、以下の重要な留保条件を伴う:
- インフレ制約は存在する:通貨発行には物理的限界はないが、経済的限界(インフレ)は存在する
- 通貨の信認は前提条件:理論の前提には「通貨への信認が維持される」という暗黙の仮定がある
- 財政規律の自発的維持:政治的圧力に屈せず、適切なタイミングで財政調整ができる前提
つまり、「デフォルトしない」という事実は、「実質購買力が維持される」ことを保証しないのである。
5. 日本の特殊性:強固な緩衝材
定量的な比較
日本を新興国と同列に論じるのは誤りである。以下の「緩衝材」が存在する:
| 指標 | 日本(2024年末) | ロシア(1998年8月) | トルコ(1970年代後半) |
|---|---|---|---|
| 対外純資産/GDP | +約90% | マイナス | マイナス |
| 外貨準備 | 1.23兆ドル | 120億ドル | 数十億ドル |
| 家計金融資産 | 2,230兆円 | 脆弱 | 脆弱 |
| 国債の国内保有比率 | 約93% | 低い | 低い |
| インフレ率(長期平均) | 0-2% | 20-80% | 50-100% |
制度的優位性
- 円の国際的地位:世界第3位の準備通貨(IMF COFER統計で約5%)
- 金融システムの安定性:主要銀行の自己資本比率は10%超
- 経常収支黒字:2023年で約20兆円の黒字(貿易収支赤字を所得収支黒字が補う構造)
- 債務の満期構造:平均残存年限は約9年と長く、ロールオーバーリスクが相対的に低い
これらの要因により、新興国型の外貨流出危機や資本逃避のリスクは極めて低い(Ito & Mishkin, 2006)。しかし、これらの緩衝材も通貨価値暴落を完全に防ぐ保証にはならない。
6. それでも残る日本固有のリスク
リスクの本質:金利と信認
日本の財政リスクは、以下に集約される:
1. 金利上昇リスク
国債残高が1,000兆円を超える中、平均金利が1%上昇すれば、満期構造を考慮しても数年内に利払い費が10兆円規模で増加する(財務省試算)。2024年度の税収が70兆円規模であることを考えれば、財政の硬直化は避けられない。
2. インフレ期待の変化
日銀の「オーバーシュート型コミットメント」終了後、市場のインフレ期待は構造的に変化しつつある。10年BEI(Break-Even Inflation)は2024年後半に1.5%前後で推移しており、長期デフレ期の0.5%以下から大きく上昇した。
インフレ率が3-4%で定着すれば、実質金利がマイナスでも名目金利は上昇し、国債費が財政を圧迫する(Blanchard, 2019の "r-g" フレームワークで分析可能)。
3. 円の信認の持続可能性
最も根本的な問題は、市場が日本政府の将来政策をどう評価するかである。以下のシナリオで信認が揺らぐ可能性がある:
- 財政再建への具体的道筋が示されない
- 政治的な意思決定の麻痺(社会保障改革の先送り等)
- 日銀の独立性への疑念(財政従属への懸念)
Reinhart & Rogoff (2009)は、先進国でも公的債務がGDP比90%を超えると成長率が低下する傾向を指摘した(後に計算ミスが指摘されたが、債務水準と市場信認の関係自体は重要な論点)。日本は既に260%超の水準にあり、「いつまで持続可能か」という問いに理論的な答えはない。
臨界点の不確実性
財政危機の発生は非線形的である。市場の信認は長期間維持された後、特定のトリガーで突然失われる可能性がある(Calvo, 1988の "sudden stop" 理論)。日本の場合、考えられるトリガーは:
- 大規模な自然災害と財政出動
- 地政学的ショック(台湾有事等)
- 人口動態の急激な悪化(生産年齢人口の減少加速)
- 政治的混乱による改革停滞
結論:理論と現実の間で
自国通貨建て国債の「形式的な安全性」は否定できない。日本は新興国のような脆弱性を持たず、短期的な危機リスクは低い。しかし、「絶対に破綻しない」という保証もまた存在しない。
より重要なことは、「デフォルトしない」ことと「実質購買力が維持される」ことは別問題だという認識である。通貨価値の大幅な低下による実質的な生活水準の低下は、形式的なデフォルトと同等かそれ以上の経済的影響をもたらし得る。
日本の財政持続性は、会計的なメカニズムよりも、以下の要因に依存する:
- 市場の信認維持(政策の一貫性と透明性)
- 金利環境の管理(日銀の政策正常化の速度と市場対話)
- インフレ期待のアンカリング(物価安定と財政規律のバランス)
- 構造改革の実行(社会保障改革、成長戦略)
- 中央銀行の独立性確保(財政従属の回避)
英国LDI危機が示したように、需給構造の脆弱性と信認の動揺が重なれば、短期間で深刻な事態に陥り得る。理論的な「安全性」に安住せず、制度の強靭性と市場信認のバランスを絶えず監視することが、日本財政にとって最大の課題である。
重要なのは、財政の持続可能性を論じる際、政府のバランスシートだけでなく、家計の実質購買力と生活水準の維持を吟味することである。形式的なデフォルト回避に成功しても、実質的な購買力が大きく低下すれば、それは良性な経済政策とは言えない。
参考文献
- Baranova, Y., et al. (2023). "The 2022 liability-driven investment (LDI) crisis", Bank of England Staff Working Paper.
- Blanchard, O. (2019). "Public Debt and Low Interest Rates", American Economic Review, 109(4).
- Calvo, G. (1988). "Servicing the Public Debt: The Role of Expectations", American Economic Review.
- Chiodo, A. & Owyang, M. (2002). "A Case Study of a Currency Crisis: The Russian Default of 1998", Federal Reserve Bank of St. Louis Review.
- Crafts, N. & Woodward, N. (1991). "The British Economy Since 1945", Oxford University Press.
- Fisher, I. (1930). "The Theory of Interest", Macmillan.
- Giavazzi, F. & Pagano, M. (1990). "Confidence Crises and Public Debt Management", NBER Working Paper.
- Ito, T. & Mishkin, F. (2006). "Two Decades of Japanese Monetary Policy and the Deflation Problem", NBER Working Paper.
- Reinhart, C. & Rogoff, K. (2009). "This Time Is Different: Eight Centuries of Financial Folly", Princeton University Press.
- Sargent, T. & Wallace, N. (1981). "Some Unpleasant Monetarist Arithmetic", Federal Reserve Bank of Minneapolis Quarterly Review.
- Wray, L.R. (2015). "Modern Money Theory: A Primer on Macroeconomics for Sovereign Monetary Systems", Palgrave Macmillan.
- 日本銀行 (2016). 「『量的・質的金融緩和』導入以降の経済・物価動向と政策効果についての総括的な検証」
- 財務省 (2025). 「令和6年末現在本邦対外資産負債残高の概要」
- 日本銀行 (2025). 「資金循環統計」
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