自国通貨建て国債は本当に「安全」なのか
「日本は自国通貨建ての国債を発行しているから、絶対に破綻しない」——あなたもどこかで、こんな言葉を聞いたことがあるのではないだろうか。財政赤字が拡大し続け、国債残高がGDPの2倍を超えても、日本は大丈夫だと。なぜなら、政府は円を刷れば借金を返せるのだから、と。
この主張は、一見すると説得力がある。そして実際、一定の妥当性も持っている。しかし同時に、この言葉には危険な単純化が潜んでいる。本当に、自国通貨建ての国債は「安全」なのだろうか? そもそも、ここで言う「安全」とは、誰にとっての安全なのだろうか?
本稿では、理論的な会計構造と市場の現実、そして日本固有の文脈を丁寧に整理しながら、財政の持続可能性について考えていきたい。あなたが最後まで読み終えたとき、「破綻するかしないか」という二分法ではない、もっと本質的な問いとなる。
本稿の中心命題
自国通貨建て国債の安全性は、「破綻するか否か」ではなく、「どの形で調整が起こるか」の問題である。名目的なデフォルト回避が可能であっても、調整は必ず何らかの形で生じる——インフレ、通貨安、金融抑圧、あるいは実質的な財政支出の圧縮として。問題は、その調整が誰の犠牲の上に、どの価格調整メカニズムを通じて実現されるのか、である。
1. 自国通貨建て国債の理論:会計恒等式の限界
まず、基本的な問いから始めよう。なぜ自国通貨建ての国債は「デフォルトしない」と言われるのか?
議論の前提
以下の議論は、日本を含む先進国の標準的な制度環境を前提としている。
- 変動相場制を採用していること
- 国債が自国通貨建てで発行されていること
- 金融システムが機能していること
- 中央銀行に一定の独立性があること
これらの前提が異なる新興国の事例(固定相場制下のロシア等)は、制度的背景が根本的に異なるため、比較には注意が必要である。後ほど歴史的事例を見る際に重要になってくる。
理論的基礎:なぜ「刷れば返せる」のか
現代貨幣理論(MMT)を含む一部の経済学派は、こう主張する。自国通貨を発行できる政府は、名目的な資金制約に直面しない、と。では、これはどういう意味だろうか?
考えてみてほしい。政府が100億円の支出をしたとしよう。このお金は誰かの口座に振り込まれる。企業かもしれないし、個人かもしれない。そして、その口座に振り込まれたお金——つまり民間の預金が増える。銀行にとっては預金が増えるということは、その資金をどこかに運用する必要があるということだ。そして多くの場合、その運用先の一つが国債になる。
つまり、政府支出→民間預金増加→国債購入資金の創出という循環が生まれる。これは会計恒等式として成立する。政府がお金を使えば使うほど、民間にはそれを買い戻すための資金が生まれる、という不思議な構造だ。
会計的には、政府と中央銀行のバランスシート連関として、通貨発行と財政の関係を説明できる。ただし、ここで重要な留保がある。日本銀行は政策目的を物価安定に置き、「財政ファイナンス」と同一視する議論には一貫して距離を取っている。日銀は2016年の「量的・質的金融緩和」の総括的検証において金融政策の波及メカニズムを詳述したが、それはあくまで物価安定目標達成のための政策として位置づけられている。
では、この理論が正しいなら、政府は無限に借金を増やせるのだろうか? 答えは、もちろん「ノー」だ。
債務管理戦略の限界:金利はコントロールできるのか?
ここで、実際に起きた議論を紹介しよう。金利上昇局面に入り、財政負担の増大が国会や市場で懸念されるようになった。そんな中、こんな提案が浮上した。「短期債への依存を高めれば利払いを抑えられるのではないか?」と。
あなたならどう考えるだろうか?
超長期の国債を発行すれば高い金利を払わなければならない。それなら、短期の国債を中心に発行すれば、今の低金利の恩恵を受け続けられる——この論理に、何か問題はあるだろうか?
この理論には、重大な前提が隠れている。それは、短期金利が将来も低位に固定されるという仮定だ。しかし市場はそんなに単純ではない。
長期金利は以下の要因で決定される(Fisher, 1930の古典的枠組みを現代化したもの):
- 実質金利(経済成長率とリスクフリーレートの期待)
- インフレ期待(BEI: Break-Even Inflation等で測定可能)
- 期間プレミアム(長期保有リスクへの補償)
ここで考えてみてほしい。もし政府が「短期債ばかり発行する」という方針に転換したら、市場はどう反応するだろうか? 投資家は気づくはずだ。「この国は、ロールオーバーリスク(借り換えリスク)を高めている」と。そして、その警戒感は期間プレミアムの上昇という形で、長期金利に反映されてしまう。
実際、日本の10年国債金利を例にとると、2024年初頭から日銀の政策修正観測が強まった際、長期金利は0.2%台から一時1.1%超まで急上昇した。市場は、中央銀行や政府の意図を見透かす。金利は、「発行年限を変えれば済む」という単純な話ではないのだ。
2. 市場の脆弱性:英国LDI危機の教訓
理論の話はここまでにして、実際に起きた出来事を見てみよう。2022年9月、英国で起きた出来事は、多くの市場関係者に衝撃を与えた。
あの3日間、ロンドンで何が起きたのか
あなたは、たった3日間で金融システムが崩壊寸前まで追い込まれる、という状況を想像できるだろうか? 英国で実際に起きたのは、まさにそれだった。
- 9月23日:トラス政権が大規模減税案を発表
- 9月26日:英国債30年金利が4.5%→5.0%超へ急騰(わずか3日間)
- 9月28日:イングランド銀行が緊急介入(650億ポンドの国債買入)
なぜこれほど急激な変化が起きたのか? そして、これは日本と関係があるのだろうか?
メカニズムの複雑性:金利が「破壊装置」になる時
ここで誤解を避けるために明確にしておきたい
LDI危機は「英国政府が破綻した」という話ではない。英国政府は債務を返済できなくなったわけではない。では、何が問題だったのか?
問題は、金利上昇がレバレッジを用いた市場参加者の資金繰りを破壊し、それが金利をさらに押し上げるという連鎖が生じたことだった。この事例が私たちに教えるのは、自国通貨建て債務であっても、金利は単なる安全弁ではなく、適切に管理されなければ破壊装置になり得るという点である。
では、具体的に何が起きたのか? 危機の連鎖反応を追ってみよう。
第一段階:トリガー
トラス政権の減税案が発表された。市場はこう反応した。「これは財政規律が緩むシグナルではないか?」長期金利が上昇し始める。ここまでは、よくある市場の反応だ。
第二段階:隠れた脆弱性の露呈
ここからが重要だ。英国の年金基金は、LDI(Liability-Driven Investment)という戦略を使っていた。簡単に言えば、国債を担保にお金を借りて、さらに国債を買うという、レバレッジ戦略だ。
金利が上昇すると、担保の価値が下がる。すると、貸し手から「追加の担保を入れろ」と言われる。これが追証だ。
第三段階:負のスパイラル
追証に対応するため、年金基金は国債を売らざるを得なくなった。しかし、多くの年金基金が同時に売り始めたらどうなるか? 国債価格はさらに下落し、金利はさらに上昇する。そして、また追証が発生する……。
第四段階:システミックリスク
この連鎖が止まらなければ、1兆ポンド規模のLDI市場全体が崩壊する。そうなれば、英国の年金システム全体が危機に瀕する。だから、中央銀行が緊急介入せざるを得なかった。
ここで考えてほしい。英国の債務残高はGDP比約100%だ。日本の約250%より遥かに低い。しかも、ポンドは世界的に信認された通貨である。それでも、金利変動と市場構造の脆弱性が組み合わされば、短期間で深刻な流動性危機が発生し得るのだ(Baranova et al., 2023, Bank of England Staff Working Paper)。
この教訓を、あなたはどう受け止めるだろうか?
注:日本の債務残高は、IMF Fiscal Monitor(2024年10月)における一般政府gross debt(国・地方・社会保障基金の合計)の定義でGDP比約250%。財務省ベースの国債・借入金・政府保証債務残高は1,200兆円超(GDP比約230%)となる。本稿では概数として250-260%と表記している。
3. 歴史的教訓:調整様式の多様性
「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」とマーク・トウェインは言った。過去の危機から、私たちは何を学べるだろうか?
重要なのは、自国通貨建て債務における調整は、必ずしも「デフォルト」という劇的な形を取らないということだ。では、どんな形で調整が起こるのか? 歴史を見てみよう。
ロシア1998年:「自国通貨建てでもデフォルトは起こる」は本当か?
1998年8月17日、ロシア政府は衝撃的な発表をした。ルーブル建ての短期国債(GKO)の支払いを停止する、と。
あなたは不思議に思わないだろうか?
自国通貨建ての国債なら、中央銀行が通貨を発行して返済すればいいはずだ。なぜロシアはそれをしなかったのか? あるいは、できなかったのか?
答えは、ロシアが抱えていた複合的な制約にある。
背景を整理しよう:
- ルーブル建て短期国債(GKO)の金利が年50-150%に上昇していた
- 同時に外貨建て債務(ミンフィン債)も累積していた
- そして最も重要なのは、ロシアは固定為替レート制(対ドル6ルーブル)を採用していたということだ
ここが決定的に重要だ。固定相場制の下では、中央銀行は自由に通貨を発行できない。なぜなら、通貨を大量に発行すれば、固定レートを維持できなくなるからだ。
危機の展開:
- 1998年8月17日:ルーブル建てGKOのデフォルト宣言
- 同時に為替レート制放棄(ルーブルは数週間で価値が約3分の1に下落)
- 外貨建て債務も事実上不履行
ここから何が見えてくるだろうか? この危機は、固定為替レート制の崩壊と外貨建て債務の同時デフォルトという複合的な性格を持っていた(Chiodo & Owyang, 2002)。ルーブル建てGKOのデフォルトは、外貨準備枯渇(1998年8月時点で120億ドル程度)と固定相場制維持不能という文脈で起きた。
だから、変動相場制を採用し、自国通貨建て債務が中心の日本とは制度的前提が根本的に異なるのだ。この違いを理解せずに「ロシアも破綻したから日本も危ない」と言うのは、リンゴとオレンジを比べるようなものだ。
しかし、だからといって日本が安全だという話でもない。なぜなら、調整にはもっと静かな、しかし深刻な形もあるからだ。
トルコ1970年代:静かに進む実質的な破綻
トルコは形式的な債務不履行を避けた。政府は約束通り、国債の元利払いを続けた。では、何の問題もなかったのか?
実は、もっと巧妙な——そして、国民にとってはより過酷な——調整が進行していた。
想像してみてほしい。あなたが1975年のトルコで、100万リラの国債を持っているとしよう。政府は約束通り、満期に100万リラを返してくれる。しかし、その100万リラで買えるものが、5年前の10分の1になっていたら?
これが、慢性的な高インフレ(1970年代後半は年率50-100%)による調整だ。名目的には政府は約束を守った。しかし、通貨の実質価値は激しく毀損した。これを"インフレ税"と呼ぶ(Sargent & Wallace, 1981の理論枠組みに対応)。
当時のトルコの構造的問題:
- 財政規律の欠如(政治的不安定)
- 中央銀行の独立性欠如(財政従属)
- 変動為替レート制への移行期の混乱
- 外貨建て債務比率の高さ
これは「破綻」ではない。しかし、国民の生活にとっては、破綻以上に深刻な事態だったかもしれない。なぜなら、静かに、しかし確実に、人々の富が奪われていったからだ。
4. 形式的デフォルト回避と実質的生活への影響:調整の帰着点
ここまで読んできて、あなたはこう思っているかもしれない。「では、結局のところ、調整とは何なのか? どんな形があるのか?」
調整メカニズムの類型:五つの道
自国通貨建て債務を持つ国家は、いくつかの「調整の道」から選択することになる。あるいは、選択を迫られる。それぞれの道が、異なる人々に異なる影響を与える。
| 調整様式 | メカニズム | 日本での可能性 |
|---|---|---|
| 名目デフォルト | 債務の支払い停止・リストラ | 極めて低い(自国通貨発行権あり) |
| インフレ調整 | 物価上昇による債務の実質価値減少 | 中程度(ただし制御可能な範囲か不透明) |
| 通貨安調整 | 為替レート下落による対外購買力低下 | 中程度(輸入物価上昇として顕在化) |
| 金融抑圧 | 低金利強制による実質的な富の移転 | 既に部分的に進行中 |
| 財政圧縮 | 社会保障・公共サービスの実質削減 | 高い(人口動態による自然発生的圧力) |
この表を見て、何か気づかないだろうか? 名目デフォルト以外は、すべて「起こり得る」のだ。そして、実は既に起こっているものもある。
「デフォルトしない」論の最大の盲点:形式と実質の乖離
ここで、根本的な問いを投げかけたい
あなたが100万円を銀行に預けているとしよう。10年後、銀行は約束通り100万円を返してくれた。しかし、その100万円で買えるものが、10年前の半分になっていたら——あなたは「約束は守られた」と安心できるだろうか?
これが、「自国通貨建て国債はデフォルトしない」という主張の最大の盲点だ。
形式的デフォルト回避の代償:通貨価値の毀損
政府が国債を自国通貨で償還し続けることは可能だ。会計的には、何の問題もない。しかし、過度な通貨発行や財政規律の喪失により、その通貨の価値自体が大きく低下すれば、家計の実質購買力は深刻な打撃を受ける。
これは形式的なデフォルトとは異なる。契約は守られている。しかし、経済的影響は同等か、場合によってはそれ以上に深刻となり得る。なぜなら、デフォルトなら「誰が損をしたか」が明確だが、インフレによる調整は、その負担が見えにくく、気づいた時には手遅れになっているからだ。
あなたの生活に何が起こるのか:二つの核心的な影響
抽象的な議論はここまでにして、もっと具体的に考えてみよう。もし高インフレと通貨価値の低下が起きたら、あなたの生活に何が起こるのか?
影響は多岐にわたるが、最も深刻なのは以下の二点だ。
第一の打撃:あなたの貯金が静かに消えていく
日本の家計が保有する金融資産は、総額で2,230兆円(日本銀行「資金循環統計」2024年第4四半期)。あなたもその一部を持っているだろう。そして、その約半分——実に1,100兆円以上が、現金と預金だ。
ここで、簡単な計算をしてみよう。年率10%のインフレが続いたら、あなたの預金の実質価値はどうなるか?
- 1年後:実質価値は約90%に
- 3年後:実質価値は約73%に
- 5年後:実質価値は約62%に
- 7年後:実質価値は約半分に
あなたが定年退職し、老後のために3,000万円を貯めたとしよう。銀行の通帳には、ずっと「30,000,000円」と表示されている。しかし、7年後、そのお金で買えるものは1,500万円分しかない。
名目額は変わらない。しかし、実質的な購買力は失われていく。これが、インフレによる「静かな収奪」だ。
第二の打撃:輸入品が買えなくなる
もう一つ、見落とせない影響がある。通貨安による輸入物価の上昇だ。
考えてみてほしい。日本は何を輸入に頼っているか?
- 食料自給率:約40%(カロリーベース)——つまり、食べ物の60%は輸入に依存
- エネルギー自給率:約13%——電気もガソリンも、ほとんどが輸入エネルギー
円の価値が大きく下落したら、何が起こるか? 小麦の値段が上がる。原油の値段が上がる。天然ガスの値段が上がる。そして、パンが高くなり、電気代が高くなり、ガソリンが高くなる。
これは理論の話ではない。2022年、円が1ドル=110円台から150円台まで下落した時、実際に起きたことだ。ガソリン価格は高騰し、電気代は急上昇し、食料品の値上げが相次いだ。
そして、もしこの通貨安が一時的なものでなく、構造的・持続的なものになったら? 生活水準の低下は、避けられない。
歴史は教えている:先進国でも起こり得る
「でも、それは途上国の話でしょう?」と思うかもしれない。
残念ながら、そうではない。先進国でも起きた。しかも、そう遠くない過去に。
英国(1970年代)
1973年のオイルショック後、英国に何が起きたか?
- 1975年、インフレ率は24.2%に達した
- 実質賃金が大幅に低下——働いても、買えるものが減っていく
- ポンドは対ドルで1976年までに約30%下落——「英国病」と呼ばれた
- 1976年、ついに英国政府はIMFに支援を要請(先進国としては異例の事態)
- 緊縮財政と金融引き締めという苦い薬により、1980年代初頭までにインフレは沈静化
大英帝国の末裔、G7の一員である英国でさえ、こうなった。
イタリア(1970-1990年代):慢性インフレとの長い戦い
イタリアの経験は、さらに示唆的だ。
- 1970年代から80年代にかけて、年率10-20%のインフレが常態化した
- 公的債務がGDP比100%超に達し、リラへの信認が低下
- 1992年の通貨危機で、リラは欧州為替メカニズム(ERM)から離脱
- 最終的に、ユーロ導入(1999年)により、通貨の信認問題は解消された
イタリアの例が教えるのは、先進国でも、財政規律の喪失と通貨の信認低下により、持続的な高インフレと生活水準の低下が起こり得るという冷徹な事実だ。
そして、これらの国々は、日本より遥かに低い債務水準だった。
5. 日本の特殊性:制度的ロックと緩衝材
ここまで読んで、あなたは不安になったかもしれない。しかし、日本には、新興国や過去の危機国とは決定的に異なる特徴がある。
それは何か? 数字で見てみよう。
数字が語る日本の特異性
次の表を見てほしい。日本と、過去に危機を経験した国々との比較だ。
| 指標 | 日本(2024年末) | ロシア(1998年8月) | トルコ(1970年代後半) |
|---|---|---|---|
| 対外純資産/GDP | +約90% | マイナス | マイナス |
| 外貨準備 | 1.23兆ドル | 120億ドル | 数十億ドル |
| 家計金融資産 | 2,230兆円 | 脆弱 | 脆弱 |
| 国債の国内保有比率 | 約93% | 低い | 低い |
| インフレ率(長期平均) | 0-2% | 20-80% | 50-100% |
この違いを、どう読み解くべきか?
まず、対外純資産に注目してほしい。日本は世界最大の債権国だ。つまり、国全体としては、海外に貸している額の方が、海外から借りている額より遥かに大きい。これは、外貨流出危機のリスクが極めて低いことを意味する。
次に、外貨準備。1.23兆ドル——これは世界第2位の規模だ。ロシアが危機に陥った時の外貨準備(120億ドル)と比べてほしい。桁が二つ違う。
そして、国債の国内保有比率。93%が国内で保有されている。これは、外国人投資家の気分次第で国債が売られるリスクが低いことを意味する。
見えない強さ:制度的ロックメカニズム
しかし、日本の本当の強さは、数字の裏にある制度設計にある。
なぜ日本の国債は、これほど安定的に消化されているのか?
国民が愛国心から買っているわけではない。市場メカニズムが、自動的に国債需要を生み出す構造になっているのだ。
第一の仕組み:年金・保険による長期保有の「強制」
あなたが支払っている年金保険料は、どこに行っているか? GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が、約220兆円の資産を運用している。そして、その一定割合は国内債券——つまり国債——で保有されている。
生命保険会社も同様だ。あなたが支払う保険料の一部は、超長期国債の形で運用されている。
これらの機関投資家は、市場の短期的な変動に対して相対的に非弾力的だ。つまり、金利が少し上がったからといって、すぐに国債を売るわけではない。長期的な視点で保有し続ける。
第二の仕組み:銀行規制による需要の内生化
銀行にとって、国債は特別な資産だ。
- バーゼル規制下で国債はリスクウェイト0%——つまり、自己資本を消費しない
- 流動性規制(LCR)において国債は「高品質流動性資産」——持っていることが推奨される
- 預金保険料の算定において国債保有は有利に働く設計
つまり、銀行は規制によって、半ば「国債を持つことを促されている」のだ。
第三の仕組み:家計のリスク回避的配置
あなた自身の資産配分を考えてみてほしい。株式と預金、どちらの比率が高いだろうか?
日本の家計金融資産の約50%は現金・預金だ。株式・投資信託は約15%に留まる。この預金が、間接的に銀行の国債需要を支えている。
この選好は、「日本人は保守的だから」という文化論で片付けられがちだが、実は税制(金融所得課税)や社会保障設計の帰結でもある。
これら三つの仕組みが重なり合って、制度的に国債需要が固定されている。だから、日本の国債市場は安定している。
これらの制度的ロックにより、新興国型の外貨流出危機や資本逃避のリスクは極めて低い(Ito & Mishkin, 2006)。
しかし——ここが重要なのだが——この安定性には裏面がある。
制度的に需要が固定されているということは、金利が市場の自然な調整メカニズムとして機能しにくいことも意味する。つまり、問題が顕在化する前に、市場が警告を発しにくいのだ。
さらなる優位性:国際的な地位
加えて、日本には以下の優位性もある:
- 円の国際的地位:世界第3位の準備通貨(IMF COFER統計、2024年第3四半期時点で円シェアは約5.5%)
- 金融システムの安定性:主要銀行の自己資本比率は10%超
- 経常収支黒字:2023年で約20兆円の黒字(貿易収支赤字を所得収支黒字が補う構造)
- 債務の満期構造:平均残存年限は約9年と長く、ロールオーバーリスクが相対的に低い
これらを総合すると、短期的に日本が財政危機に陥る可能性は極めて低いと言える。
しかし、それでも問題は残る。それは何か?
6. それでも残る日本固有のリスク:信認の三層構造
ここまで、日本の強さを見てきた。では、リスクはないのか? いや、リスクは確実に存在する。ただし、その性質は新興国のそれとは異なる。
「信認」を分解する:三つの層
財政論議で「市場の信認」という言葉がよく使われる。しかし、この言葉は曖昧だ。信認とは、一体何に対する信認なのか?
実は、信認には三つの層がある。そして、日本においては、この三層の状態が異なっている。
信認の三層構造
- インフレ抑制に対する政策信認:日銀が物価安定を実現できるかどうか
- 国債需給への信認:誰が、どの価格で国債を吸収し続けるか
- 政策選択への信認:政治がどの調整手段を選ぶかへの予測可能性
では、それぞれの層で、日本の現状はどうか?
第一層:インフレ抑制への信認——揺らぎ始めている
10年BEI(Break-Even Inflation、市場が織り込む期待インフレ率)を見てほしい。2024年後半、1.5%前後で推移している。長期デフレ期の0.5%以下と比べると、大きな変化だ。
市場は気づき始めている。「日銀は本気で2%のインフレ目標を追求するつもりだ」と。そして、もし追求するなら、金利も上がらざるを得ない、と。
第二層:国債需給への信認——まだ強固
前節で見た通り、制度的ロックが機能している。国債は安定的に消化されている。ここは、今のところ問題ない。
第三層:政策選択への信認——最も不透明
そして、これが最も厄介な層だ。
あなたは、日本の政治家を信じられるだろうか?
社会保障改革を断行できると? 必要な増税を実行できると? 財政再建の道筋を示せると?
過去数十年の経験は、楽観を許さない。社会保障改革は先送りされ続け、増税には政治的抵抗が強く、財政再建目標は繰り返し形骸化してきた。
これが、政策選択への信認の低下だ。市場は見ている。「この国の政治は、困難な決断を下せるのか?」と。
そして、危険なのは、第三層の信認が失われると、第一層と第二層にも波及する可能性があることだ。
金利上昇の現実味:数字で見る財政への影響
国債残高が1,000兆円を超える中、平均金利が1%上昇したら何が起こるか?
満期構造を考慮しても、数年内に利払い費が10兆円規模で増加する(財務省試算)。これは、消費税4%分に相当する額だ。
2024年度の税収が70兆円規模であることを考えてほしい。利払い費が10兆円増えるということは、税収の7分の1が、ただ利払いに消えるということだ。
これが、財政の硬直化だ。
r-g の逆転:理論が教える危険信号
ここで、重要な理論的枠組みを紹介したい。ノーベル経済学賞の候補にも名前が挙がるオリヴィエ・ブランシャールが2019年に提示した "r-g" の関係だ。
r は金利、g は経済成長率を表す。彼の分析が示すのは:
- r < g の時:金利が成長率を下回る時、債務の持続可能性は高い
- r > g の時:金利が成長率を上回る時、債務は雪だるま式に増える
日本は長らく r < g の状態だった。だから、高債務でも持続できた。しかし、この関係は永続的ではない。
考えてみてほしい。以下のシナリオで、r と g の関係はどうなるか?
- 人口減少により潜在成長率が低下する(g が下がる)
- 日銀の政策正常化により実質金利が上昇する(r が上がる)
- 財政規律への疑念により期間プレミアムが上昇する(r がさらに上がる)
この三つが重なれば、r > g への転換は避けられない。そして、その時、債務の持続可能性は根本から問われることになる。
高債務下での政策制約:身動きが取れなくなる
ラインハート&ロゴフの2009年の研究を覚えているだろうか? 「公的債務がGDP比90%を超えると成長率が低下する」という、かの有名な(そして後に計算ミスが指摘された)主張だ。
彼らの計算には問題があった。しかし、彼らが提起した本質的な問いは、今も有効だ——高債務下では、政策当局がどのような制約に直面するか?
実証研究が示唆するのは、特定の「閾値」の存在ではなく、以下のような制約の漸進的な強まりだ:
- 財政政策の硬直化:利払い費の増大により、本来必要な政策に使える予算が減る
- 外部ショックへの耐性低下:災害や危機が起きた時、財政対応の余地が限られる
- 政治的不確実性の増大:増税か歳出削減か、どちらも政治的に困難で、決断が先送りされる
日本は既にGDP比250%超の債務水準にある。「いつまで持続可能か」という問いに、理論的な答えはない。しかし、政策の選択肢が確実に狭まっていることは、認識すべきだ。
臨界点の不確実性:いつ、何が起こるのか?
最も厄介なのは、財政危機の発生が非線形的だということだ。
つまり、徐々に悪化するのではない。長期間、何も起こらない。市場は安定している。国債は順調に消化されている。全てが平穏だ。
そして、ある日突然、何かが起こる。
経済学者ギジェルモ・カルボは、これを "sudden stop"(突然の停止)と呼んだ。市場の信認は、特定のトリガーで突然失われる可能性があるのだ。
日本の場合、そのトリガーは何だろうか? 考えられるのは:
- 大規模な自然災害と財政出動——首都直下地震、南海トラフ地震
- 地政学的ショック——台湾有事などによる防衛支出の急増
- 人口動態の急激な悪化——生産年齢人口の減少加速
- 政治的混乱による改革停滞——連立政権の崩壊や政策の不透明性
これらのどれが起こるかは予測できない。しかし、どれかが起これば、市場の見方が一変する可能性はある。
そして、その時には、対応が遅すぎるかもしれない。
結論:調整の不可避性と選択の問題
長い旅路を共にしてくれて、ありがとう。ここまで読んできたあなたは、もう気づいているはずだ。
問題は「破綻するか否か」ではない。
自国通貨建て国債の「形式的な安全性」は、否定できない。日本は新興国のような脆弱性を持たない。制度的ロックが国債需要を安定化させている。短期的な危機リスクは低い。
しかし、より本質的な問いは、「どの形で調整が起こるか」だ。
最後に、あなた自身に問いかけてほしい
調整が避けられないとして、どの形の調整を選ぶべきなのか? あるいは、どの形の調整なら受け入れられるのか?
名目的なデフォルトを回避できたとしても、調整は以下のいずれかの形で必ず生じる:
- インフレによる債務の実質価値減少——あなたの貯金の価値が静かに目減りする
- 金融抑圧による実質金利の低位固定——貯蓄者から政府への、静かな富の移転
- 通貨安を通じた輸入購買力の低下——エネルギーと食料が高くなり、生活が苦しくなる
- 財政支出の実質的圧縮——年金給付の抑制、医療費負担の増加、公共サービスの質低下
どれも痛みを伴う。そして、その痛みを誰が負担するのかは、政治的な選択の問題だ。
日本の財政持続性は、会計的なメカニズムよりも、以下の要因の相互作用に依存している:
- 市場の信認維持——特に、政治が困難な決断を下せるという信認
- 金利環境の管理——日銀の政策正常化のペースと市場とのコミュニケーション
- インフレ期待のアンカリング——物価安定と財政規律のバランス
- 構造改革の実行——社会保障改革、成長戦略の実現
英国LDI危機が教えたように、金利上昇と市場構造の脆弱性が重なれば、短期間で深刻な事態に陥り得る。理論的な「安全性」に安住してはいけない。制度の強靭性と市場信認のバランスを、絶えず監視する必要がある。
本稿を閉じるにあたって
自国通貨建て国債が安全であるか否かを問うこと自体が、既に一段古い問いである。
重要なのは、その安全性が誰の犠牲の上に、どの価格調整メカニズムを通じて維持されるのかである。デフォルト回避に成功しても、実質購買力が大きく低下すれば、それは良性な経済政策とは言えない。
財政の持続可能性を論じる際、政府のバランスシートだけでなく、あなたの、そして私の、家計の実質購買力と生活水準の維持を中心に据える必要がある。
なぜなら、最終的に痛みを負うのは、数字ではなく、人間だからだ。
そして、その人間とは、あなた自身かもしれない。
参考文献
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