「円安」の尺度は一つではない~用途によって使い分ける~

「為替の影響は測りたい用途によって使う指標をわける、につきる」。

経済学的に言えば、為替には主に「名目(Nominal)」「PPP」「REER」という3つの異なる顔がある。 これらを混同することが、議論を混乱させる最大の原因だ。ここでは、それぞれの「顔」を整理したい。

まず最初の整理:3つの顔の違い

指標 何を測るか 具体例 動く主因 見るべき場面
名目レート その日の交換比率(資産価格としての為替) 海外旅行の決済、iPhoneなど輸入品の値段、ドル建て投資の損益 金利差、リスク選好、投機、短期資金フロー 「いま外でいくら払うか」を知りたい時
PPP 物価水準の差をならした実質的な購買力 日本の生活水準が他国に比べてどうか、長期の豊かさ比較 物価(インフレ率)の相対差、非貿易財の価格 生活の豊かさ、長期的な力関係を語る時
REER 貿易相手国も含めた実質的な価格競争力 輸出企業の「割安さ」「高すぎ/安すぎ」、産業の国際競争力 名目レートの変動、相対的なインフレ格差、貿易構造(相手国比率)の変化 輸出入、産業構造、交易条件を分析する時

同じ「円安」でも、どの指標を見ているかで結論がズレる。議論の際は、まず定義を合わせる必要が生じる。

1. 財布の痛みと「名目為替レート」

〜海外旅行・輸入品〜

私たちがニュースで目にする「1ドル=150円」といった数字。これが名目為替レート(Nominal Exchange Rate)である。 海外旅行や輸入取引においては、これが絶対的な真実となる。

学術的には、これは「資産価格(Asset Price)」の側面が強い。金利差や投機筋の動向によって短期的に激しく変動する。

具体例:

  • ハワイのホテルが1泊300ドルなら、120円/ドルの時は36,000円、150円/ドルだと45,000円。
  • 同じ部屋でも、名目レートだけで支払いが25%増える。
  • iPhoneや海外ブランドの値段が「急に上がった」と感じる時も、まず名目レートの影響が直撃している。

ここで重要なのは、たとえ日本の物価が安くても、iPhoneの輸入価格やハワイの宿泊費は、 この名目レートで容赦なく決済されるという点だ。 したがって、「日本人が海外で感じる貧しさ」を語る上では、名目レートの減価(円安)が直結するファクターとなる。

2. 生活の実感と「PPP」

〜生活物価・豊かさの比較〜

一方で、「日本人は以前より貧しくなったのか?」という生活水準の議論において、名目レートを使うのは不適切だ。 ここで登場するのがPPPである。

これは「一物一価の法則(The Law of One Price)」を前提としている。 理論的には、為替レートは自国物価と外国物価の比率に収束するという考え方だ。

具体例:

  • 名目レートが円安でも、国内の牛丼が今も400〜500円台で食べられるなら、国内生活の購買力は急変していない。
  • 逆に、名目レートが動かなくても、国内物価が上がればPPP的には「生活の実感は悪化」する。

(牛丼のような非貿易財はPPPの直接比較は難しいが、国内生活の実感をつかむ例として用いている。)

IMFなどの国際機関が、各国のGDPを比較する際に「PPPベース」を重視するのは、 各国の物価水準の違い(バラッサ・サミュエルソン効果など)を取り除いた 「実質的な生活の豊かさ」を測るためである。

「名目GDPで〇国に抜かれた」と騒がれても、PPPベースで見れば景色は異なる、というリテラシーである。

よくある誤解:PPPは「明日のドル円を当てるための指標」ではない。生活水準や長期均衡の話に強い、という役割分担。

3. 産業の真の実力と「REER」

〜貿易競争力〜

最後に、最も実務的かつ複雑なのがREERである。 これは単なる二国間のレートではなく、以下の2つの調整を加えた「指数のバスケット」だ。

  • 実効(Effective):貿易相手国のシェア(重み)を考慮する。
  • 実質(Real):相手国とのインフレ率の差を調整する。

REER = 名目実効レート × (自国の物価水準 / 貿易相手国の加重平均物価水準)

※REERの計算方法はBIS・IMF・OECDなど機関によって細部が異なり、国・財構成や基準年の違いが存在する。

これは「価格競争力」を測る指標だ。2024年時点で、日本のREERは歴史的な低水準にある。 これは「日本製品が国際的に割安である」ことを意味し、短期的には輸出企業に追い風となる。 ただし、この状況をどう評価すべきかは単純ではない。

具体例:

  • 仮に日本車が3万ドルで売られているとする。円安と相対インフレ差でREERが下がると、海外から見ると同じ車が「実質的に安い」。
  • その結果、数量ベースの輸出は増えやすいが、国内の賃金や投資が伸びないままなら、国民の実質所得は増えない。
  • 生産性向上によって単位あたりのコストが下がり、それが価格面に反映してREERが低下するのであれば、これは効率化の成果と解釈できる。
  • 賃金停滞や投資不足によるREER低下であれば、国際的な価格競争力は得られても、国民の実質所得は向上しない。

また、REERの低下は交易条件(輸出価格/輸入価格)の動向とも密接に関連する。 エネルギーや原材料の輸入価格が上昇すれば、輸出数量が増えても交易条件は悪化し、 国全体の実質所得は圧迫される。 REERが示す「価格競争力の向上」と「国民の豊かさの向上」は必ずしも一致しない。

結論:悲観しすぎず、楽観しすぎず

  1. 海外に行く時は、名目レートを見て覚悟を決める。
  2. 国内の暮らしは、PPP(とインフレ率)を見て評価する。
  3. 日本企業の競争力は、REERを見て分析する。加えて、その背景(生産性向上がコスト削減に結びついているか、賃金停滞によるものか)まで見極める必要がある。

これらを用途によって使い分けることが、 感情的な議論に流されず、経済の実態を正しく掴むための一助となる。

【補足】本コラムでは説明の明瞭さを優先し、実務・政策で最も頻繁に参照される3つの概念に絞った。 実際には、NEERや各種の均衡為替レート(FEER、BEERなど)といった概念も存在し、 それぞれ異なる分析目的に用いられる。

【補足】 本稿で扱った「REER(実質実効為替レート)」は、相対物価を調整した指数である。 ただし、この「相対物価」の測り方には複数の選択肢があり、どの指標を使うかで REERの水準も解釈も変わってくる。

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